バター巻きパン

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バター巻きパン

 調理台に小麦粉を開けたヨハネは素手で生地をこね始める。  台所にはこね機も置いてあったが、この程度の量では使う必要は無いという判断なのだろう。  生地をこねる際、パラパラと混ぜていたのは塩と酵母であろうか。パンの発酵に酵母を使うのはこの世界でも変わらないのだなとわたしはそれを見ていた。  彼の手際は見事なもので、上から目線で誉められる立場では無いとはいえ戸塚店長のそれを思い出してしまう。 「よし」  しばらく生地を捏ね、充分に練り上がったそれをヨハネはボールに入れた。厚手の布巾を上に被せたのでこれから発酵に入るようだ。  手が空いたところを見計らい、わたしは彼にたずねる。 「聞いてもいいかな。今入れたのはどんな酵母なの?」 「この山に自生している山葡萄から作った僕のオリジナルさ。粉末上に加工してあるから使いやすいし、山葡萄の品種のおかげで発酵も早い」 「手作りなんて凄いわね。わたしは市販のものと、店長が用意したものしか使ったことがないわ」 「こんな山奥でもパンを作ってみようと試みた、手慰みの産物だけれどね」  その後、ヨハネは「今のうちにお風呂を準備する」と言って、風呂場に向かっていった。  そう言えばお風呂も沸かすと言っていたので、発酵待ちの時間で沸かすつもりなのだろう。  てきぱきと動くヨハネの姿を見て、わたしとしてもお客さん気分に甘えるのも居心地が悪い。なにかお返しが出来ないものかと冷蔵庫とおぼしき扉を開けてみて、わたしは驚いてしまう。 「なによこれ」  それは確かに冷蔵庫のようなのだが、その中身が空っぽだったからだ。  冷静に考えれば自給自足の生活をするヨハネが冷蔵庫に溜め込むほどの食料を確保していると考えるほうが間違いなのだろう。だが、この文明的なホームの見た目に騙されていたわたしは、今の今までその事に気づかなかった。  リビングに戻ったわたしは手荷物を広げ、その中にある食べ物をあらためることにした。  ヨハネも男の人なのでお肉でもあると喜んでくれるかなと思ったが肉はコンビーフしかない。  あの洪水のことを考えれば、わたしが今生きているのはこの世界に転生したおかげなのだろう。数日分の食料やテントまで与えられたのだから文句を言えばバチが当たる。  だが、だからこそわたしは小首を傾げてしまう。日持ちがする食べ物のほうが便利だよねと気を利かせてくれたのなら、ビーフジャーキーとウイスキーもつけてくれればよかったのに。 「アマネ。お風呂の準備が出来たから、よかったら先に入るといい」 「ヨハネは?」 「僕はそろそろ一次発酵が終わった頃合いだし、パン作りを再開するよ。それとも先ほどみたいに僕の腕前を見物するかい?」 「それは今度でいいわ。せっかくだからお風呂をいただくわ、覗かないでねヨハネ」  考えてもお返しが思い浮かばないので、とりあえずわたしはヨハネの好意に甘えることとした。  風呂場に向かうとそこには床暖房がついていたのか、最初に軽く説明されたときには気づかなかった温もりが足元から伝わってくる。  初めての世界で慣れない出来事の連続は、思っていた以上にわたしの体力を削り取っていたようだ。しゅるしゅると衣服を脱いで床に散らかしたわたしは、軽くシャワーを浴びて湯船に浸かった途端、ふっと意識を失っていた。  湯船の中、すやすやと寝息を立てるわたしは時間を忘れてしまう。温かくて心地がいい感覚が全身を包み込み、それが安心感を与えていたからだ。  だいぶ時間が経過したのだろう。わたしはヨハネの呼び掛けで目を覚ました。 「アマネ! パンが焼き上がったよ」 「ふぁーい」  少し寝ぼけた頭を揺すって状況を確認しながら、わたしは湯船から上がった。  そうだ、ヨハネのパンが焼きあがるまでの間にお風呂を頂いていたんだ。  思い出して浴室を出たわたしの目に飛び込んできたものにわたしは驚く。 「ひゃああ!」 「何事だい?!」 「見ないれ!」  悲鳴に驚いたヨハネも駆けつけたので余計である。  わたしはタオルで隠していたとは言え、ヨハネに裸を見られて余計に声をあげてしまった。  わたしが驚いたのは脱ぎ散らかしたハズの衣服である。  上から順にブラ、ショーツ、ブラウス、ジーンズと着る順番にあわせて丁寧に畳まれていたからだ。  後から考えれば気を利かせたヨハネが畳んでくれただけなのもわかるのだが、この頃のわたしは「寝ている間にお風呂を覗かれたかもしれない」と疑ってしまっていた。  ヨハネが風呂場に近づいたであろう状況証拠だけで、そういういやらしい考えをこの時期のわたしは浮かべてしまう。 「す、すまない」  わたしの恥じらう声に従ってヨハネは外に出たようだ。  わたしは折り畳まれた衣服の順番でそれらを身に纏った。  一度風呂で体を清めたからか、わたしは少し違和感を得てしまう。下着が少し湿っていて、なんだか着心地が悪いなと。  そういえばテントの中にあった荷物には衣服がなかったので、これがわたしの一張羅である。これじゃあ洗濯したら裸で過ごさねばならないので、早々に対策を講じるべきだろう。 「お待たせ。さっきは驚かせてゴメンね」 「それは飛び込んだ僕が悪かったよ。でも何に驚いていたんだい?」 「なんでもないわ。ヨハネは気にしないで」  流石にわたしも服を勝手に畳まれた程度で騒ぎすぎたかと謝ってみると、ヨハネの方からもわたしに不注意を詫びた。  わたしは気にしなくていいとは言ったが、やはり気になるのであの事はたずねてしまう。 「でも、わたしが寝ている間、本当に覗いていないわよね?」 「そんなことをするわけないじゃないか」 「でもさっきは……わたしの裸を見たくせに」 「それはアマネが大声をあげるから心配して……」  ちょっと確認するつもりだったのだが、思っていた以上にしょんぼりとするヨハネの顔はとてもいたたまれない。  そもそもヨハネの経歴を考えたら、こういう意地悪をしても彼を傷つけるだけだろう。  その顔に気づかされたわたしはヨハネに頭を下げる。 「そんな顔をしないでよ。疑ったりしてごめんなさい」 「誤解が解けたのならいいさ。それに僕もガンプクだったしね」 「このえっち」 「えっち?」 「なんでもない」  謝ったとたんに明るい顔になったヨハネの切り替えの早さには、ちょっとだけわざとやっているのかと思ってしまう。それでも相手は家主なのだから、立場的に横柄な態度は如何なものかと自分をたしなめる意味も込めて、わたしは邪推を振り払った。  ちなみにわたしの裸を見て「ガンプク」と言ったのは、例のトスカーさんの受け売りで誉めたつもりだったそうだ。 「なんでもないのならそろそろ食事にしよう。あまり放っておくと冷めてしまうよ」 「そうだったわね」  食卓に上がるのは当然ながらヨハネが焼いたパン。窯の熱で保温しておいたため熱々の焼きたてをキープしていたそれを、またもや熱さなど感じていないそぶりでヨハネは運んできた。  わたしの前に置かれた皿に取り分けられたのは掌サイズのパンが二つ。わたしが知っているパンに例えるならばバターロールにそれは良く似ていた。 「小麦の味を重視してバターを減らした巻きバターパンだ。熱いから気をつけて食べてくれ」 「いただきます」 「待って。このパンはそのまま、端からがぶりと食べてほしい」  ヨハネが言う言葉から考えるとこれはバターロールで相違ないようだ。多少の単語が異なっているが、むしろバターやらパンやらと大半の単語が同じものとして通じる時点でこれくらいは誤差の範疇なのだろう。  そう思った矢先、一口大に千切ろうとしたわたしに対してヨハネが忠告をしてきたので、わたしも「もしかしたら、噛んだら溶けたバターが溢れてくるパンだから『巻きバター』などと違う名前なのかな」と身構えてしまう。  言われるがままかぶりつくために口近づけると、鼻先をパンの香ばしい匂いが刺激してきた。知らない仕掛けへの恐怖よりも、この美味しそうな匂い誘惑が勝るのはさもありなんだ。 「かぷり」  そしてわたしは小さな口を大きく開いて、ヨハネのパンに齧りついた。  端から噛ったわたしの前歯は、さくりと音を立てて軽々とパンの中へと入っていく。  鼻先を刺激していた香りは口の中からも鼻孔をくすぐってきて、わたしの嗅覚は小麦とバターで占領されてしまった。  いや、これはバターではなくマーガリン。それも手作りかな?  味わうと浮かび上がるその違いと先ほど見た冷蔵庫の中身から、わたしは味付けに当たりをつけた。 「もふもふ」  そのまま噛み千切って口のなかで咀嚼すると、小麦の素朴な味が口一杯である。味付けのマーガリンもはっきりとわかるものの主張しすぎず、小麦の甘味を引き立てていた。  それに一番の驚きは外はサクサク、中はもっちりとした焼き加減だろう。この食感の妙を味わって貰いたいからこそ「そのままかじりついて」と言ったのならば納得だ。 「美味しい」  咀嚼してパンを飲み込んだわたしの口は無意識に感想を漏らしていた。  一口のパンにここまで感激したのはいつ以来だろう。 「お口に合ったようでよかったよ」  ヨハネは美味に感激するわたしの笑顔が嬉しいのか、にこにことわたしを見つめてきた。こうやって美男子に間近でジロジロと見つめられたらなんだか恥ずかしい。  わたしの顔はそのせいで赤くなってしまった。 「うん」  気恥ずかしくなったわたしは顔を下に向けて残りのパンを食べきる。  たしかに美味しい。  これは御馳走だ。  皿に盛られた二つだけでわたしの脳は満腹になっていた。 「御馳走様」 「まだ残っているけれど、おかわりは必要かな?」 「いまは二つで充分よ。それくらいこれは美味しかったわ」  二つ充分と答えたわたしに対し、すこし残念そうな顔をするヨハネ。そんな顔をされてもいまは満腹なのだから、無理に食べてもこのパンに失礼だ。 「焼きたてとはまた違うけれど、こんなに美味しいのだから、あとで食べても美味しいわよ」 「そうだね。僕も少し作りすぎたか」  作りすぎたと言うように、ヨハネが焼いたバター巻きパンはあと十四個ほど残っていた。一個辺り五十グラム程のようなので、渡した小麦粉をすべてこのパンに使ったようだ。 「これくらいふたりで食べれば数日と持たないわよ。それより、ヨハネは食べないの?」 「僕は先に頂いたから大丈夫さ。だからこの篭のパンは、全部アマネのぶんだ」  全部食べていいと言われても、わたしは少し気後れしてしまう。たしかに材料の小麦粉を提供したのはわたしだが、この味の対価としてはどう見ても釣り合いがとれない。  さっきから施してもらってばかりのわたしも彼のために何かが出来ないものか。そう考えたわたしは、あるひとつの提案を思い浮かべる。 「ねえヨハネ。ひとつ提案があるんだけれど」 「なんだい?」 「またパン屋をやってみたいと思わない?」  わたしの提案を聞いたヨハネの驚きは狐につままれると言えばよいか。  元々パン屋を生業にしていたという話と、こんな山奥でもパンの研究をしているいまの姿を見たら、食いつかなければ嘘だ。 「どういうことさ」 「わたしとヨハネで焼いたパンをわたしが街に売りにいく。そのお金でまた材料を買ってきて、また新しいパンを焼く。移動手段と調理を手伝ってもらうとはいえ、わたしが接客してヨハネは人前にはでなくていいから、いざこざを心配する必要もないわ。それにお金も稼げるから、ヨハネもひもじい暮らしをする必要がなくなるでしょ?」 「気持ちは嬉しいけれど、どうやって街までパンを売りにいくのさ。移動手段がないじゃないか。それにアマネは人見知りなんだろう? 読み書きも出来ないんだし、どうやって接客をするのさ」 「わたしも人見知りだからと甘えずに頑張るわよ。あとこのホーム、見るからに移動とか出来そうじゃない。それで街まで降りるのはどうかな?」 「それは出来ない。たしかにこのホームはコンテナ形式で地下水を汲み上げるポンプさえ撤収すれば持ち運びは可能さ。でもアマネがどんな思い違いをしたのかは知らないけれど、ホームを移動させる為の車がないんだ」  わたしの想像は少し間違っていたらしく、このホームは移動できないらしい。  その回答にわたしは肩を落としてしまう。  そんなわたしを諦めさせるだめ押しなのか、それとも不憫に思ったのか。ヨハネは替わりの提案をわたしに出した。 「だが一度街に行ってみたいと言うのなら明日連れていってあげよう。僕も久しぶりに街の様子を見てみたいし」 「いいの? でも、わざわざ山奥に逃げてきたアナタとしては人里は嫌ではないの?」 「嫌ではない、怖いだけさ。でもアマネと一緒なら少しは我慢できるよ」 「ヨハネ……」 「それと、万が一僕が誰かに襲われたら、アマネは遠慮なく僕を見捨てて逃げてくれ。それさえキミが守ってくれるのならば、僕もできる限りキミのことを護るよ」 「ややこしいんだから。逆に街ではわたしがヨハネを護ってあげる。だからそこまでの移動の方はお願いするね。さっきは移動手段なんてないって意地悪をいっていたけれど、まさか歩きではないよね?」 「ちょっとスリリングだけれど、明日までのお楽しみさ。体験すれば、これではパンを運べないのにも納得してもらえるだろう」  ヨハネがもったいぶる「パンを運べないが、街まで移動できる方法」とはどのようなものだろうか。  わたしは小首を傾げてしまう。 「なんだろう? でもこうやってお出掛けの予定を立てていると、なんだかデート前みたいね」 「デート……ごめん、明日になったら起こしに行くからキミは先に休んでくれ」 「急にどうしたのよ」 「アマネは悪くない。ただちょっと、お風呂に入りたくなっただけさ」 「んもー。変なんだから」  急に顔を赤くしたヨハネは風呂場に飛び込むと、そのままわたしが寝るまで出てこなかった。  後で聞いたところによれば、ジャポネではデートというのは締めにホテルで休憩することを隠語として含んでいたそうで、それを想像してヨハネはああなったようだ。  えっちと呟いて意味が通じなかったのも含めて、ジャポネ語は細かい部分で日本語とは違うニュアンスを含んだり含んでいなかったりしているのが、わたしにはややこしい。
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