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神託
夜明け前、星々が天空に美しく煌めく頃、王妃ティイはうっすら目を開けた。目を覚ましたと言うより、眠れない夜をうとうとしながら過ごしたのだ。
ティイの傍には、昨夜の祝宴で上物のワインを飲み過ぎた、ファラオ、アメンヘテプ三世が、肥満した大きなお腹をゆっくり上下させながら心地よさそうに眠っている。
昨夜はミタンニ王国の使節団を歓迎する祝宴だった。
莫大な黄金や軍事援助と引き替えにミタンニの王女を側室として迎えることが決まったのだ。
これまでにもエジプトの友好国や同盟国からこうした王女の輿入れは幾度もあった。だが、ティイにとって今回の輿入れは、彼女に女としての激しい焦りや至らなさのようなものを強く感じさせた。
さすがのティイも王の寵愛を一身に受けるにはもう若くはないと重々承知していたのだが、いまだ世継ぎとなる王子を生めないことが彼女をひどく憂鬱な気分にさせていた。
ティイは夫を起こさないように静かに起き上がり、蝉の羽根のように、肌が透けて見える薄い肌着を一枚身に纏い、ベッドルームからゆっくりでた。
すぐに控えていたヌビア人の女召使いたちがティイに駆け寄り着替えを手伝う。ティイは急いで身繕いを済ませ、秘密の通路を使って王宮の外へ走った。
人目につかないように用心深く、特にアメンの神官たちに見つからないように、マルカタの王宮を出たのだ。
ファラオに次ぐ、むしろファラオよりも権力を握る王妃ティイが、単独でこのような危険な行動を取るのは、余程思い詰めてのことだった。
王宮を出たティイは密かに待たせていた船に乗り、
「急いで!」
すぐに執事サフテに命じた。
「かしこまりました」
サフテの合図で、ティイを乗せた船は、星が瞬く空の下を、深く潜るように静かにナイルを下りはじめた。
ティイは唇をかたく結び前を見つめた。
うっすら白みはじめた東の空は刻々と変化している。
何としても日が昇る前に目的の神殿に着かねばならなかった。
紀元前千五百六十九年ごろ、テーベのイアフメス一世王がヒクソス朝を倒して始まったエジプト第十八王朝は、ハトシェプスト女王、トトメス三世王のころから最盛期を迎え始めた。そしてついに、紀元前千四百十年、アメンヘテプ三世王の時代、その支配領土はエジプト王朝史上最大規模となる。
アメン神はそれまでテーベの一地方神にすぎなかったが、帝国の繁栄に伴い、エジプトに勝利と栄華をもたらす神として崇められ、太陽神ラーと習合、アメン・ラーとして国家神にまで高められたのだ。
第十八王朝の歴代ファラオは、国家神アメン・ラーを称え、莫大な黄金や土地や神殿などを寄進する一方で、王族同士の権力争いにアメン神官団の権威を利用した。そのためアメン神官団は巨万の富を得、王権を凌ぐほどの権力を手にする。
ティイがアメンヘテプ三世と結婚したとき、エジプトは王家とアメン神官団の権力の二重構造が出来上がり、アメン神官団の政治や王権に対する過剰な干渉や介入がピークに達しつつあった。しかも、王族同士で血で血を洗うような権力闘争が行われていたので、王宮はいつも謀略や暗殺で渦巻いていた。
アメンヘテプ三世は信仰心の厚いファラオだったので、アメン信仰の総本山であるテーベ神殿の増改築やカルナク神殿の巨大な第三塔門の建造などの莫大な寄進を続けた。
ところがアメン神官団の横暴はエスカレートするばかりだったので、激怒したアメンヘテプ三世は、神官団を牽制するため、父、トトメス四世から王家で崇められていた太陽神アテンを、アメン神に対抗する神として崇拝しはじめたのだ。
さらにアメンヘテプ三世は、アメン神官らを政治から遠ざけるため、テーベ対岸のマルカタに王宮を築き、王妃ティイと共にそこで政治を執り行った。
こうして王家とアメン神官団との亀裂は日増しに深まり、激しく対立するようになるのだが、やがて権力闘争に嫌気がさしたアメンヘテプ三世は政治から次第に離れ、遊興や女道楽に現を抜かすようになってしまった。
王妃ティイは、ファラオ、アメンヘテプ三世がどんなに側女を持っても笑顔を絶やすことはなかった。しかし、民の暮らしぶりに心をくばり、政治や学問芸術にも明るく、強い意思と、自分の考えをしっかり持っているティイは、決して弱い王妃ではなかった。
王が国政から遠ざかる一方、王妃ティイは、数々の政治的手腕と権謀術数で徐々にアメン神官団の力を削ぐことに成功。
王権を再び王家に取り戻した。
こうしてティイはファラオと並ぶ、いや、それ以上の権力を握ることになったのだ。
アメン神官団を牽制することに成功した王妃ティイだったが、ティイと国王の間には王位を継ぐべき王子がいなかった。ティイはもう若くなかった。
(もし王子が生まれなかったら、それを一番望んでいるのはアメンの神官たちではないか。男の子に恵まれないのはアメンの神官達が呪術をかけているからに違いない。このまま世継ぎに恵まれなかったら、いや、むしろそうなることをアメンの神官たちは願っているに違いない)
極度の不安と猜疑心がティイを苦しめ、ついに神におすがりすることにしたのだ。
(神が望みを叶えて下さるのなら、我が子を神の子として差しだしてもかまわない)
そう決意したティイは、男子を授かったなら、王子が神職に就いてもかまわないとさえ思った。男子を授かることはティイの切実なる願いだったのだ。
ティイが思索に耽っていると急に声がした。
「王妃さま、着きました」
ティイはサフテの声で我に返るとすぐに船を止めさせゆっくり降りた。
船はナイルから一時間ほど北へ下ったところの西岸から、陸にひかれた人工の水路を通り、山々の狭間にある秘密の神殿の入り口に着いたのだった。
「ここで待っていなさい」
そうサフテに命じ、ティイは一人で神殿に向かって歩いた。
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