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1
目を閉じているのにまぶしくて、わたしはゆっくりと目をあけた。
目の前にはなにもなかった。
きっと、目が見えなくなってしまったのだと悟った。
どうやら、わたしはひとりぼっちみたいだった。
だれの声もしない。気配もない。息遣いも、においも、衣擦れも、すべて。
なにもない。
ゼロだ。
わたしだけが存在するから、この空間はゼロだ。
わたしはひとりだ。
左目に涙が盛り上がって、右目からこぼれた。
涙はわたしの足元に落ちて、四方にぱちんと飛び散った。
あれ?
涙のしずくが、見える。
見える。
よくよく落ち着けば、なにも塗っていない手の指の爪も、はだしのままの足の甲も、すべてが、素直なままで、そこにあった。
ということは、わたしの目が見えていないのではなくて、目の前が真っ白な世界なのだということ。
ようやく、合点がいった。
納得したところで、次の一手はまだ思いつかない。
不幸中の幸いなのは、どうやら、ここにはわたし以外だれの姿もないということだ。
寒くもないし、暑くもない。
ほんのりと心地よく、わたしの皮膚が呼吸している。
つまり、なにも着ていないということ。
他人様にお見せできるほど、立派なからだは保持していない。
わたしが、レレ・ポンズだとか、リタ・ヘイワースだとかだったら、このままでも一向に問題ないのかも知れないけれど。
わたしは両手をひろげてみた。
指の先にはなにも触れない。
しゃがんで、足の裏をひんやりと押してくる地面に触れた。
真っ白い地表は、つるつるしていて、ほどよく温度がなくて、もうどこで買ったか覚えてもいない、たぶん、乗り換えの電車を待っている間に立ち寄った雑貨店で買った琺瑯のバターケースそっくりだった。
バターケースを買ったはいいものの、普段マーガリンを愛用しているものだから(バターは高いからね)、結局、数回使ってお役目御免になり、しまい込んでいる。
雑貨店で見たときは、すごく魅力的に思えたのに。
バターケースが悪いんじゃない。
家賃相応の、ネットショップで一番安いマスキングテープみたいな色した壁の1DKが悪いのだ。
インディゴブルーの縁が丸く盛り上がっていて、オリーブ材のシンプルな蓋がついていて、バターナイフを入れたままにしておけるくぼみがついていて、側面に、縁と同じ色のインディゴブルーで“Butter”と描いてある。
真っ白と呼ぶには、少しくすみがかかっている、バターケース。
琺瑯製だというのに、うっかりステンレスのバターナイフでこすってしまって、さっそく激しい一本傷がついてしまった、わたしのバターケース。
我が家のバターケース。
わたしは黒いマジックペンのキャップをきゅぽんとあけて、まずは、足首までを覆うズボンと、七分袖のシャツを描いた。
おしゃれなんて程遠い。
わたしは、絵心をお母さんのお腹のなかに置いてきたのだ。
新幹線を描いたら、蛇になる。
上着は、ワンピースだとかチュニックだとか名前がつくものではなくて、単なる四角い、長方形の、目を薄めると、縄文式のプルオーバーに思えるなりそこないだし、膝丈のズボンは、かろうじて三角形をひっくり返してくっつけたようなもの。
それでも、着ないよりはマシ。
わたしが描いたぎこちない線は、わたしのからだの曲線にちっとも沿ってくれないけれど。
これで、とりあえず人並みになった。
涙が止まったら、空腹に気がついた。
食べたいもの。
否。
描けるもの。
原始人の骨付きお肉と、にんじんのサラダ。コーンポタージュスープ。
遠近法を無視したお皿とテーブルに乗せて。
ちょっと、座りたい。
できれば、屋根の下でゆっくり食べたい。
するする線を伸ばしていくと、わたしはどんどん大胆になった。
だって、ここにはだれもいない。
このみじめな絵を、わたし以外はだれも見ていない。
思いつくままに、描いていこう。やけくそだ。
リアルな家を書く必要なんてない。
シンデレラが王子様に出会った、彼女の終の棲家になる挑戦的な城。
ジャスミンが生まれ育った、夕映えがまぶしい砂漠の城。
雪の女王が自分の力を存分に発揮して建立した、生きている氷の冬の城。
わたしが描きあげた、へっぽこ巨大な城だって負けちゃいない。
デッサンは狂いまくりだけれど、インパクトは大だ。
立派な尖塔、天井の高い広いホールをいくつも作りたいから、宇宙船みたいな玉ねぎ型を思いつくままに連ねた。バルコニーへ続く階段は、夜空のきらめきを閉じ込めた透明で美しい階段。
バルコニーの中央にしつらえたテーブルと椅子に腰掛けて、原始人のお肉にかぶりついたら、お腹が一段落して、今度は寂しくなった。
心は感じやすいのだ。
2
さびしい心が落ちてきた。
わたしは再びマジックペンを手にとった。
きゅぽん、とキャップをひねって、すぐに閉めた。
描き始める前に、わたしの理想を丹念に精査して、緻密な完成予想図を頭に浮かべておかなくては。
大きくて優しそうな目。
アニス色の瞳。
くっきりと整った眉。
モンシロチョウのようなまつげ。
形の良い高い鼻。
豊かな黒髪。
上品で知的な口元。
細くて長い首。
長い手足。
がっちりした肩。
ほどよく筋肉質なからだ。
それから。それから。
彼の右足の小指を描き終えて、わたしはほっと息をついた。
わたし以外のだれかが見たら、ボロボロすぎる男性だ。
ずっと昔、古びた図書館に置いてあった、片足駝鳥のエルフを思わせるボロボロぶりだ。
なんだろう。この虚しさ。
頭のなかには完璧の恋人がほほえんでいるのに、目の前に立っているのは、三歳児の落書き以下だ。
彼は、ぺらりと風に吹かれて、わたしの向かいに腰掛けた。
平面的。
あまりにも平面的。
奥行きがなくて、バラエティー番組で
笑い物にされる、脱力感あふれる、無駄な力が入っている、その割にデッサンが狂っていて、歪んだ線の、ありふれた絵。
だけど、いとおしい。
眺めているうちに、胸が痛くなる。
ぎゅっと。
文字通り、鷲掴みに。
なって。
「はじめまして、僕のお姫様」
彼は、かくんと首をひねって、わたしに手を差し伸べた。
なんなの、
ロックスターみたい。
椅子に腰掛けているだけなのに。
恋に落ちた音がした。
それってどんな音?
決して控えめな音じゃない。
三十階建てのビルの屋上からの、投身自殺の音に似ているかも。
3
彼がわたしと仲を深めるまでに、さほどの時間はかからなかった。
と、言うと、ベタな推理小説だけれど。
本当にそうだったんだから、嘘じゃない。
現実は小説より奇なり、と言うでしょ?
わたしが証拠。
びっくりした。
信じられなかった。
だけど、彼は、わたしを一目見て気に入ったのだ。
それはそれは、熱烈に。
強烈に。
わたし以上に。
どうしてわたしがここまで気に入られたのか、わからない。
だけど、彼はわたしが気に入ったのだ。
「世界中探し回ったって、これほど完璧な女性はいないよ。
僕と、結婚、結婚してください」
って。
だから、わたしは急いだのだ。
彼が、心変わりしないうちに。
わたしがはじめに描いた城は、わたしだけのものだった。
だって、世界にはわたししかいなかったのだもの。
当然だ。
彼と結婚、することになって、わたしはかなり焦った。
彼とふたりで過ごす世界。
彼とふたりで暮らす世界。
わたしが必要とする世界は、百八十度、変わってしまった。
わたしは描いた。
彼と、住む家を。
テーブルをもっと広くした。
椅子の数も増やした。
どうせひとりだからと、巨大スクリーンで恋愛映画を観るなら、広すぎるくらいの部屋がいいだろうと、描いた絨毯敷きの大広間には、アラベスクもどきの壁絵で飾った。
ベッドはふたり別々でいい、と思った。
それは、彼が信用できなかったからじゃない。
気恥ずかしかったからだ。
でも、彼は、
「きみがいない夜なんて、想像もできない」
と、言った。
「そんなの、二度と太陽が昇らない朝と同じだ」
とも、言った。
この人は、本当にわたしが描いた人なのだろうか。
わたし自身が押し留めていたもの、ためこんでいた憤懣が、あっさり目の前に立って、わたしに手を差し伸べている。
よく考えると、かなりイタい。
でも、これがわたしの本心だったのだ。
認められたかった。
世界中に愛されたいのではない。
壮大な野望ではなくて、ささやかな願望。
ブラウンの瞳がきれいだと褒められたかった。
あなたはやさしい人だと言われたかった。
クリスマス前の忙しい時期だから雇ったのにインフルエンザとかふざけんな、と、ケーキ屋の店長に怒鳴られたくなかった。
わたしが検品している製造ラインだけ古紙の計量ミスが多い、と、時給を下げられたくなかった。
あんな鮫肌はじめて見たわぁ~ウチのコスメ品質いいのにあのお客さんじゃもったいない、と、接客してもらったばかりの美容部員が、客と共有のトイレで
愚痴っているのを個室から盗み聞きしたくなかった。
はじめて、わたしの耳が正しく働いたのだ。
はじめて、わたしの目が真実を見たのだ。
わたしは三日三晩、不眠不休で、描き続けた。
わたしたちを祝福してくれる善良な人々。
わたしたちが平和に暮らす、絵本のような町。
外国の絵はがきみたいな、直線的でありながらぬくもりのある町並み。
日毎、笑い声が増えていく家々。
朝を知らせる太陽と、眠りを誘う香りをはなつ月。
海をうるおす雨。
火を囲んで時間を過ごしたくなる雪。
恐ろしくも神々しい雷。
4
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