Einfuhlung:いつかは、わたしをいざなう永遠

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浅月信也が物心ついた時、家は爆発炎上していた。わけもわからぬまま見知らぬ「おじさん」「おばさん」の家を転々とし思い出も記憶に残らぬまま進学した。 底冷えする勉強部屋にちょこんと置かれた夜食。そっけない即席めんだが、7人目の養母はひと手間を加える愛情があった。 その味噌味ぐらいしか印象に残っていない。 たらい回しの生活はとつぜん終止符を打った。里親の家計が破綻したのだ。信也はバイト先で知らせを受けた。倉庫内軽作業とはいえ、中国人留学生をまとめるリーダーにまで上りつめた。 上司の評判は上々で、正社員として働いてもらいたいという声すらある。 だが、「辞めてもらおう」 理不尽な仕打ちに信也はもちろん異議を申し立てる。そこで彼は信じられない事実を突きつけられた。 養父が特殊詐欺にひっかかり、その穴埋めをするために家族に内緒で借金をした。債務の連帯保証人に信也の名が連なっており、給与も担保になっている。 それだけなら、個人の問題と自己責任で片付けられようが、どういうわけか勤務先の動産まで計上されている。もちろん、民法上の不法行為だが会社としては従業員の家庭問題にかかずらう余裕も義務もない。 人生の梯子を外された信也は途方に暮れた。学費は奨学金と副業で賄われていて経済的に自立していたが、それも差し押さえられる可能性がある。 さらに噂がSNSで拡散され、大学にいづらくなった。 八方ふさがりの路上でホームレスから僅かな残飯をわけてもらう日々。そこに救いの女神が降臨した。動画配信者の戸田沙月も住所不定無職だった。 リアル底辺ガールと称して恥とプライバシーを切り売りして日銭を稼いでる。信也も被写体となり、いつの間にか昇格していた。 定期的に振り込まれる雀の涙ほどの広告料で賞味期限切れの弁当をわけあい、満喫のシャワーを浴びた。沙月の身体は痩せ細っていたが信也を満足させるには十二分過ぎた。 そんなうるおいも来月から途絶えるという。投稿サイトが収益の見込めないチャンネルを閉鎖すると発表した。 「どうしようか」 信也が考えあぐねている隙に魔が差した。沙月の父親はいわゆるIT社長であり、それも業界大手だった。急成長しつつある動画配信サービスに目を付け、新規参入を狙っていた。 「結婚なんか認めるも何も、出来るわけがないだろう。だいたい、子供の養育はどうする?」 スマホ越しにかぶりを振る彼は傲慢と夜郎自大を絵にかいた様な男だった。 それっきり沙月とは関係が途切れた。引きこもり支援サービスと名乗る屈強な男たちが生配信中を急襲し、ワゴン車で連れ去った。 ふたたび孤独になった信也は日雇いの短期バイトを渡り歩き、缶酎ハイをあおり、高架下でおでんをつつく毎日を送る。 悪臭の充満した個室で力んでいるとマイナス思考が侵襲してくる。現場と名ばかりの宿舎を往復する日々。稼いでは栄養を吸収し、排泄する。自分は食物連鎖を駆動する機構の一部ではないのか。 そんな矮小な歯車のひとつぐらい外れても社会は微動だにしないだろう。自分を大切にしろと相談する度に月並みな説教を食らうが、個人個人を尊重しないとやっていけないほど世の中は脆弱ではない。 地球には百億近い人間がひしめいているじゃないか。そして毎日、何十万という命が無駄に失われている。戦争、犯罪、貧困、病気、企業のエゴによる事故、公害。 閉鎖空間で思考を循環させているとますます気が滅入る。そういう暗黒の日課を堂々巡りさせている人間は信也を含めて数えきれないほどいるのだろう。 「畜生、もう生きるのが嫌になった」 勢いよく個室のドアをあけ放った。 「痛ッ」 扉の陰から短い悲鳴が聞こえた。 「あっ、ごめんなさい」 信也が慌ててドアを閉じようとすると、そそくさと小柄な人影が走り去った。長い髪が揺れていた。 一瞬だが短い裾がまくれあがり、ちらっと白い生地が見えた。 女だ。 立ち入り禁止の場所に異性がなぜ。 「俺が間違っているのか?」 不安になって信也はぐるりと首を回した。壁の一面に口の空いた陶器が並んでいる。 「何なんだよ」 信也は狐に騙された気持ちで手を洗った。それにしても、さっきの女、どこかで遭った気がする。 そうだ。思い出した。ぼやけたイメージが脳裏に揺らいでいる。それ以上、記憶をまさぐろうとすると強烈な片頭痛に阻まれた。 「フルネームを知っているんだ。畜生、もう少しで出かかっているのに」 彼はその場にくずおれた。
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