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   喜八は、もう帰るが夕霧の残りの時間分の金を払うので今日は客は通すな、と巾着に手を突っ込み、下男に三分ほど渡した。当然、下男は半刻もいないのに約一晩分の金をもらい戸惑ったが、ありがとうございやしたと言い喜八を見送る。金さえもらえれば、断る理由などない。  華やかな暖簾をくぐり、門を出る。歩みを進め喧騒から離れる。もう寝静まっている街に歩いてきても、あの腫れた手と苦笑いがまだ頭から離れなかった。  あの仕打ちは客だろうか、店のものだろうか。  どちらにせよ、夕霧のあの顔を見て喜八はいい気持ちがしなかったのは確かである。  朝霧もあのような顔をしたことがあったが、今のように金を渡し守ってやることもできなかった不甲斐なさも同時に蘇ってきた。そして朝霧は、今日の夕霧と同じように笑うのだ。全く大丈夫ではないのに、大丈夫、と微笑む。今のように財力や余裕があれば、あのとき朝霧を守ってやれただろうに。嫌な思いをさせずに済んだだろうに。  そんなしょうがない後悔ばかり思い返していると、もう目の前は屋敷だった。大きな扉を開けると、案の定、妻の椿が立っていた。  喜八が起きていたんだね、と言う前に椿が遮る。 「今日は、勘吉さんのお供はなかったみたいで」  いかがでした?と聞いてくる椿は、まるで雪女のように冷たく感じた。しかし、この冷たさは浮気や嫉妬からくるものではなかった。もともと政略結婚であり、18年前に後継である長男も授かってる。愛もなく、後継の心配もなかった。  そして今、喜八の遊郭通いとなれば妻として心配するのは世間体と、妾として女郎を身請けするのではないかということである。  この大きな店に若い女がやってきて、愛しているのは妾だ、妾の子が跡取りだ、なんてことになるかもしれない。正妻としてそれはなんとしても避けたかった。その悩みが出てくるのも、喜八にはその財力が充分にあるからである。 「……女を買いに行ってるわけじゃないよ」 「遊郭に通って、ですか?」  昔馴染みだった女郎にそっくりな男がいて、なんて説明出来るわけもなく、喉をうならせ喜八は、そこは安心してくれ、とだけしか言えなかった。  椿は、不服そうな顔をして、そうですか、と歩いて寝室へ向かってしまった。喜八は、参ったなと頭を掻きながら、寝支度をし布団に入る。よく干された布団が、色々考えて頭がいっぱいになっていた喜八を簡単に夢の世界へ誘っていった。
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