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そこにいるのは朝霧であった。朝霧が、座っている。喜八は思い切り目を見開く。
「な……お、おい」
狐男はにっこりしたまま、なにも言わず、襖を閉めていなくなった。
目の前にいる女をまじまじみる。手を口に当てているその姿は、まるで骨董品を品定めしているように見えた。そっくりすぎるのである。小さい口も、真っ黒な髪も細い指も。驚くのも当然であった。喜八は先程店先で、朝霧の死を伝えられたばかりである。
「旦那様、何をお飲みで?」
「あ……いや……」
喜八は口に手を当て、まだ女を見る。似すぎているが、どことなく違う。いや、それは当たり前だ。死んでいなかったのか?しかし、あのころから変わっていない、歳を取らないわけない。
喜八の頭の中を、ぐるぐると考えが回る。そんな立ちっぱなしの喜八に、問いかける。
「ああ。旦那様、朝霧さんのお客さんで?」
目の前の朝霧に似た女から、朝霧の名が出る。一瞬びくりとして喜八は現実離れした考え事から引き戻された。
「あ、ああ。もう十なん年前のことだが……」
「だから」
もう、何にも説明してないんですね、とあの狐男に向けられた言葉だろうか。前の女は座り直し、細い指を綺麗に揃え頭を下げた。
「夕霧でありんす。一応、男でありんす。」
顔を上げ、にっこりとほほえむ。その顔は、どうみても男には見えず朝霧の可愛らしさしか見えなかった。
「おとこ?」
突拍子も無い単語に、喜八は手で口を抑える。その艶やかな色の着物から出ている細い首には確かに、主張の弱い喉仏らしきものが見える。女にしてはすこし低めの声、そして喉仏、言われなければわからなかったが、喜八は戸惑いながらもその事実を飲み込んだ。
「……君には申し訳ないが、俺には男色の気はない……失礼させてもらうよ」
「待って旦那様、お話だけでも。帰らないでおくんなんし……わっちが叱られてしまう」
ね、とにっこりほほえむ笑顔は朝霧そのものだった。この街で怒られるとあったら、生易しいものではないと想像してしまった喜八はそれを振り切って出て行く厳しさはなかった。
夕霧がぽんぽんと座布団を叩く。
「そんな、とって食いやしませんよ」
いつもはとって食われる側でありんす、と呟いた伏し目がちな目はどことなく寂しそうであった。
厚いしっかりとした座布団に、どっかりと座る。お茶を入れている横顔を見ても、朝霧に似ている。その視線に気づいたのか、夕霧がちらりと横目で喜八を見た。
「そんなに見つめないでくんなまし」
「いや……すまん、つい」
「……そんなに似ていんすか? 朝霧さんと」
「……似ている、正直、本人みたいだ。朝霧と、なにか関係があるのか」
朝霧はくすくすと小さい口から静かに笑い声を漏らした。眉は垂れ、すこし困ったような表情を浮かべる。きっと、ここで何回も何十回も聞かれた話であろう。
「いやだ旦那様、ここで身の上話なんて」
夕霧の言う『ここ』というのは遊郭。遊女は皆、金の肩代わりに連れてこられ男の相手をしている。自分を売った実家を、寂しい思い出など話す人はいない。急須の口からから注がれるお茶の湯気が、夕霧を霧のように包んだ。喜八は思い出の奥底から、朝霧を思い出していた。
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