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『だから、これからは余りこれなくなる』  そう、若い頃の喜八は本当に寂しそうに、正座をしながら拳を握りしめる。  店の修行、親から進められる許嫁の話。自分の金を削って通っていた遊郭であったが、跡取りの話が出てきたいま、通うのが難しくなったきたのである。  正座した膝の上で握りしめていた拳を、朝霧の手が包む。柔らかく温かい手であった。ヒョイと俯く喜八を覗き込む朝霧は、愛らしく微笑んでいた。喜八は本気で、その笑顔を一生見続けたいと思っていた。 『そんな、今生の別れのように言わないでくんなまし』 『しかし……。そうだ、逃げてしまおう。一緒に、どこかへ……』  そういうと、喜八の持ってきた金平糖を一つつまみ、喜八の口の中に放り込んだ。強制的に会話を終わらせ、朝霧は困ったように微笑む。 『わっちは、いつでもここにいんしんす』  そういうと、窓に向かって歩く。くるりと振り返る朝霧は、喜八の贈った打掛を羽織っており、その着物は楼台の柔らかな明かりに照らされ、一層朝霧の肌を映えさせた。 『旦那様は、なんで遊女が前に帯を結んでいるかご存知で?』  朝霧の後ろの窓からは、変わらず男と女の声が聞こえる。赤い提灯の明かりも、すこし部屋に入り込んで朝霧を妖しく照らしている。 『既婚者のしるし……』  そういうと、朝霧はまた、喜八の前に座った。楼台に照らされる朝霧の顔は、寂しいように微笑む。 『喜八様がここにきてくだされば、わたしはいつでも喜八様の妻でありんす』  額をコツンと、ぶつける。ちらりと朝霧の顔を見ると、下に俯いているまつ毛が長く、光に照らさせる。ずっと見ていたい気持ちに喜八は胸が締め付けられるようであった。 『だから、自分の身を危険にさらすことなんか考えないでくんなまし』  朝霧の腕を掴み、自身のほうに引き寄せる。豪華な着物から伸びている首の根元に鼻をあてると、白粉の匂いが肺をいっぱいにした。 『いつか……いつか……』  そううわ言のようにつぶやいた。抱きしめていたため、喜八は朝霧の顔は見えなかったが、『ええ』と漏らした声は、憂いを帯びていた。
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