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「……それで夕霧。朝霧はどうなった」
夕霧は、キュと口を結ぶ。
「……それで、私は、どうなった」
あぐらに肘をつき、片手で頭を抱えた。
ひとつ、重いため息を吐く。
「私は店で大繁盛、朝霧を忘れておいて」
情けない、と今まで聞いたことないような、か細い声で話した。痛々しくも聞こえるその話を、夕霧は深刻な顔で聞く。
「旦那様……」
「あの時、私に甲斐性があればと、いくら考えたことか」
「……そんな」
朝霧が、母が喜八のためを案じ足抜けの提案を蹴ったと聞いた夕霧は、足抜けに協力してくれなんて、自分が言うべきことではなかったのだと心がずしりと重くなる。
あぐらの上で握りしめている手を、頭を抱えている喜八に近付く権利はないと、俯き口を閉じる。
喜八はひとしきり考え込むと、顔を上げる。
「夕霧」
ああ、ダメになってしまうと、か細い声で返事をし夕霧も顔を上げる。怒っているか、悲しんでいるかの顔だと予想した夕霧であったが、もっと複雑な……眉を垂らし微笑み、しかし目の奥に覚悟を秘めている目で喜八は言う。
「一緒に逃げる妓に、着物何色がいいか聞いてきなさい」
意外な返答に、夕霧は目を見開いた。
「旦那様」
「夕霧には幸せになって欲しい」
緊張で冷たくなった夕霧の手を取る。指先からジワリと暖かくなっていく感覚は、その場も暖かくしていった。緊張がじわじわと溶け、夕霧の顔もほころんでくる。
「ありがとう、ございます……」
俯いてひとつ、自分の手に重ねられた喜八の手に涙を落とす。嬉しい時は、そんなに泣くものではないと、しわの多い手で東雲の頬をふいた。
夕霧の、硝子玉のような綺麗な涙が朝霧に似た長い睫毛を彩る。
恐ろしいほどの美しさと、泣きたくなるほどの懐かしさに、喜八はまた、参ったなと、胸を痛めたのである。
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