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  『夕霧には、幸せになって欲しいんだ』  あの日から、しばらくぶりに夕霧のところへ尋ねる。小脇に風呂敷を抱えながら。妻に怪しい目で睨まれながらも、急いで作らせた着物だ。  喜八は、柄にもなく胸を高鳴らせ廊下を歩いていく。下男は、贈り物を持って来た喜八が夕霧に貢いでいる思ったのか、たいそう喜んでいるように見えた。  障子を開けると、夕霧が足崩して座っていた。赤い着物を身にまとった夕霧の、その様子はまるで牡丹の花が落ちているかのようであった。 「旦那様」  きちんと後ろの障子がしまったことを確認し、風呂敷を夕霧の目の前に広げる。濃紺の着物と、梅鼠色の着物が、綺麗に折りたたまれている。 「もう少し、豪華なものを送りたかったのだが、外に出て目立つと悪いだろう……」  濃紺の着物を、節ばった喜八の手が撫でた。その手は、朝霧から夕霧までを思い出し、記憶をなぞっているようでもある。 「旦那様……」  その節ばった手を、夕霧の細い手が包んだ。悲しげに俯いていた喜八は、顔を上げる。鼻がくっつきてしまうのではないかというくらいに近くにいた夕霧に驚きながらも、その美しさにも驚いた。大きな目は、喜八だけを写している。 「ゆ……」 「この夜が、私が遊女でいる最後の夜です」  重ねられた夕霧の手は、くいと力を入れて喜八の手を握った。喜八は、訳の分からぬ緊張感に手汗がジワリとにじむ。ぱちりと瞬きするたびに、前髪を揺らすほどの風が起きているのではというほど、近くに見ていた。 「……男は気持ち悪いかもしれんせん」  その瞬間、喜八の視界は暗くなる。鼻がつきそうなほど近づいた顔から唇を重ねるのは、難しいことではなかった。ふわりと夕霧の香りに包まれる。柔らかな唇が離れていった。 「……最後の夜でありんす」  どうか、抱いてくださいませんか。  唇から離れた夕霧の目には涙がたまっていた。涙をまとっている瞳を、喜八は恐ろしく美しいと思った。  朝霧とであったこと、失ったこと。……夕霧と出会えたこと。夕霧の美しさを前に、喜八は、自分を恨んだ。夕霧に会えたことを少しでも感謝してしまっている自分に。恨むべき生い立ちを背負った美しさを、美しいといってしまうのは躊躇われた。しかし、喜八は確かに、夕霧に出会えてよかった、と思ってしまったのであった。 「夕霧……」 「……朝霧だと、思ってくれて構いんせん……」  それでも、どうか、と俯いた夕霧から滴る涙は、濃紺の着物に黒い染みを作っていく。  ああ、この子は今まで、どんなことをされてきたのだろうか。大変だっただろう、なんて言葉は綺麗事になる程、きつい人生だったのだろう。両親から引き剥がされ、朝霧に重ねられ、性まで偽りの生きてきた。  そんな子に、どうしてこんな顔をさせることができようか。 「……君は夕霧だろう」 「旦那様」 「朝霧なんて思うものか」  喜八は白い陶器のような肌に伝った涙を手で拭う。夕霧のその小さい顔は、喜八の手で包み込めてしまうのではないかというほどであった。  頬に手を当て、涙ぐんだ目を見つめると若い頃の気持ちが蘇ってくる。 「旦那様……」  頬を包んでいる腕を、夕霧の細い手で掴み手に頬をすり寄せた。その可憐な姿に、喜八の心臓はひとつ大きく打った。外の喧騒など聞こえぬほど、まるで世界に二人きりになったような部屋で、喜八は、たしかに、夕霧の唇を重ねた。
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