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揺れる船で、東雲は立って漕いでいる夕霧を見つめた。
「今頃、みんな気づいているころだろうね」
「そうかぁ」
「昼見世までにはバレるだろうよ」
東雲は頬杖をつき、ため息をついた。上を見つめると、目の前に広がる一面の空が嬉しかった。
「でもまあ……髪を切ってくるなんて思わなかったよ」
夕霧の頭は、剃刀で雑に切ったようにまばらになっていた。手ぬぐいでほっかむりしてるとはいえ、髷を結っていない髪はちらりと見えるだけでおかしかった。
「朝から漕いでいるから随分遊郭から離れたけど、念のためもう少し離れたら床屋で髷結ってもらおう。」
「でも、相当怪しまれるだろう」
そういうと、袖から巾着を東雲に渡した。ジャリ、と金属が擦る音と、小さい巾着の割にずしりと重かった。東雲は不思議そうに紐をとくと、一両二両……と、小判が重なっていた。
「うわ! なんだいこれ、夕霧の?」
「袖に入っていた」
「入っていた、って……」
一枚渡せば、怪しむだろうが内密にやってくれるだろうとぶっきらぼうに呟く。その大金は、喜八の粋な計らいだと言わずともわかった。それだけ言うと、ただ行く先を見てギイギイと漕いでいる。
昼の日差しに照らされた夕霧は逆光で、東雲からはどんな表情をしているのかわからなかった。
「……それにしても、東雲の夜鷹のふり、うまかったじゃないか」
「褒めてんのかい、そりゃ」
ははは、とからりと笑う。漕ぐために捲っている袖から伸びる腕も、濃紺の着物から伸びる首の喉仏も、もうそこには、‘‘夕霧’’としての‘‘女’’の姿は無かった。
「……髷を結ったら、寄りたいとこがあんだ。」
そう言うと、また一生懸命にぎいぎいと漕いだ。
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