終わりの刻限

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終わりの刻限

「哀れなる透明人間。  お前はすべてを捧げ、やがて幸福へとたどり着くだろう。  だが、覚えておけ。  その幸福の先にあるのは、大いなる絶望だ」 森で偶然出会った魔女が、ナズナに言った言葉だった。 今ならば、前半の言葉は分かる。 確かにナズナはいずれ、そのすべてを捧げて、幸福へとたどり着くはずだ。 けれど、大いなる絶望については、まだわからない。 ナズナは魔女と一晩一緒にいて、色々な話を聞いた。 ガラスのような透明な瞳が印象的な魔女だった。 今考えれば、あの魔女もムスカリと同じように、ナズナを嫌悪するようなことはなかった。 だというのに、ムスカリと出会った時のような感動を、魔女には感じなかった。 最近、あの魔女の言ったことをよく思い出す。 久しぶりの経過報告だった。 街の酒場の片隅で、ドブネズミと一緒に、残飯をかじっていたナズナに、脊髄にナイフを差し込まれたような激痛が走った。 「奴隷の刻限」を使った呼び出しだった。 ナズナは、急いで決められた合流ポイントへと向かう。 合流が10秒遅れるごとに、「奴隷の刻限」による激痛は増していく。 そして、その激痛が最高潮に達した時、ナズナは激痛で死ぬのだ。 指定された場所に、相手は来ていた。 いつもの男だ。 外見だけは、いたって善良そうな朴訥とした青年である。 激痛に耐えながら、ナズナは声を発した。 「来たぞ」 青年は、少し驚いたように周りを見たが、すぐ、ナズナのことを思い出して、得心したようにうなずいた 「お前、今どこにいる」 「こ、こ……。魔力、を……はやく」 ナズナが痛みで、切れ切れに声を出す。 男が指を鳴らす。 すると、炎が沸き上がり、ナズナの体をあらわにした。 火事場の焼死体のような、人型の炎が、転げまわる。 男が再度指を鳴らすと、炎は消え去った。 男は、ナズナのいる場所に向き直り、近くにあった角材をふるう。 派手な音がして、角材が折れ、ナズナの額から飛びちった血が、地面に落ちて、姿を見せる。 「お前ごとき下っ端の、姿を全て神に奪われるような罪人が、オレに意見するんじゃねえよ」 そう言って、不機嫌そうに、もう一度、折れてしまった角材をふるう。 「それに、何、人間みたいな血を出してやがる。  見えない以外にとりえなんてないのに、血なんか出したら、人にお前の存在がばれちまうだろうが」 「すいま、せん」 理不尽だと思っても、ナズナには逆らうことができない。 「奴隷の刻限」のこともあるし、そもそも、生まれてからナズナはずっとこういう理不尽な扱いを受けてきたのだ。 ナズナにとって、これは当たり前の扱いだった。 男に、ナズナはこれまでの報告書を渡す。 「ち、めぼしい成果はなしか」 報告書を見た男の言葉に、ナズナはほっとする。 成果がないということは、ムスカリへ危害が加わる可能性がないということだ。 「おい。透明野郎。  なんで、お前、盲姫を犯さない」 貴族の娘が何者かに貞操を奪われた。 父親が分からない子供ができた。 そういったスキャンダルは、隠していても伝わる。 ナズナは今まで、透明な体を利用して、そういったスキャンダルを何度か作ってきた。 ナズナ自身も好きな方法ではないが、自分の命には代えられない。 成果なしは、そのまま役立たずの処分につながる。 最初に、ナズナがムスカリの部屋を訪れたのも、ムスカリを犯し、スキャンダルを作るのが目的だった。 「まさか、同じ罪人ってことで、同情でもしてんのか」 男が、なじるようにナズナに言う。 「俺からすりゃ、罪人だろうがなんだろうが。  貴族に生まれて、食う心配もない。そんだけで、妬ましい」 男が苛立ちながら言った。 そうしておいて、ナズナのいるあたりを狙って、適当に魔法を放つ。 ナズナは、地面を転がりまわる。 「そうだ。いいことを考えた」 男が、凶悪な笑みを浮かべる。 それは、いつもナズナを虐げている時に浮かべる笑みを、何倍にも増幅したような。 そんなおぞましい笑みだった。 「お前、俺をあの貴族の屋敷の中に手引きしろ」 「え?」 「俺がお前の代わりに盲姫を犯してやるよ。  瞳を奪われた罪人を犯すなんてのは、本当は気持ち悪くて、嫌だがな。  お前がやらないんだから、仕方がねえよな。  盲姫に俺の子種をしっかり注ぎ込んで、孕ませてやるよ」 確かに、ナズナが手引きすれば、男はなんなくムスカリの部屋に忍び込めるだろう。 ナズナの脳裏に、自分が過去に犯した娘たちの姿がはっきりと浮かび上がる。 そして、娘たちとムスカリが姿が重なる。 「奴隷の刻限」の痛みは、増していた。 男が魔力の供給を再開しなければ、ナズナの命は1日、いや、数時間も持たない。 今までもやってきたことだった。 自分のために、人を踏みにじる。 弱者であるナズナは、そうしなければ生きていけなかった。 「そうと決まりゃあ。さっそ……」 く、準備を。と続くはずだった男の言葉は、声にならなかった。 声の代わりに、ナイフでぱっくりと切り裂かれた喉元から、大量の血が噴き出す。 見えないナイフ。 透明人間。 ナズナが男を殺したのだった。 つまり、それは、ナズナの命がもう数時間もないことを意味していた。 「奴隷の刻限」の痛みの中で、ナズナは、ムスカリのことを考える。
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