透明人間ナズナ

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透明人間ナズナ

満ちた満月が、煌々とムスカリの部屋を照らしていた。 「私ね。今まで、目なんて見えなくていいと思ってたの」 いつものように、部屋を訪ねたナズナに、ムスカリは言った。 「だって、目が見えなくても、音と気配で大体のことはわかる」 最初に会った時と同じように、月明かりが窓から差し込んでいた。 「それに、私よりも悲惨な人はいくらでもいる。  目が見えないくらいで文句を言ってたら罰が当たる。そう思ってたの」 一切の光をともさない瞳で、けれど、自分を見ながら話してくれるムスカリに、ナズナは笑いかける。 誰にも見えない、ムスカリにだけわかる、山茶花みたいな淡い笑み。 ナズナがささやく。 ずっと、こそこそと話をしていた影響で、ナズナは普通の声量での話し方を忘れてしまっていた。 それに、「奴隷の刻限」の痛みで、喋るのも辛い。 「そんなことはない。ムスカリはもっとわがままを言ってもいいし。  もっと幸せにならないといけない」 「ナズナは優しいから。そういうこと言うよね」 ムスカリが少しだけ、拗ねたように言う。 話を遮られたのが、ちょっと、お気に召さなかったらしい。 ナズナはかわいいなと思いながら、先を促した。 痛みよりも、ムスカリと一緒にいられることの方が大事だった。 ムスカリが、気を取り直して話始める。 「私は、今まで目が見えなくても良かったの。  でもね。  最近は、目が見えなくて良かったなって思うようになったの」 「なんで」 「だって、目が見えたらナズナには会えなかったでしょ」 虚を突かれて、ナズナが黙る。 それを確認して、ムスカリは話を続ける。 ムスカリは、目で見る以上のことを、その心の目で見ている。 「でもね。  ナズナが色々な話を私にしてくれたでしょ」 「ああ」 「それでね。目が見えたら良いな。とも思うようになったの。  私、わがままで欲張りな悪い子なの。  見えなくても、見てみたいなって。そう思っちゃうの」 最後の言葉の意味はわからなかった。 けれど、ムスカリに見たいものがあるというなら、自分にできることがあってよかった。 自分にあげられるものがあってよかった。 ナズナはそう思う。 「奴隷の刻限」の激痛が、ナズナの体中を駆け巡った。 神経の根元から体が壊死していく感覚に、本能が恐怖する。 「どうしたの。ナズナ。大丈夫?」 「大丈夫だ」 ムスカリの問いに、平然と答えられた自分を褒めてやりたいとナズナは思った。 そう。大丈夫だ。 ムスカリは大丈夫。 これから、ムスカリには幸せな未来が待っている。 テーブルの上に、ナズナが知っている全ての情報を書き記した書類を置く。 ただ、ナズナのような下っ端が手に入れられる情報がどれだけ正確で、有用かはわからない。 ムスカリの父親は、有能だ。 正しい情報を選び出し、ナズナには理解できないような使い方をするだろう。 ムスカリの父親が力を得るほど、ムスカリを危険から守る力は強くなる。 ナズナが今まで集めてきた情報が、ムスカリを守る盾になる。 「大丈夫。全部大丈夫だ。ムスカリ」 ナズナの透明な体が、空気が水に、水が氷になるようにパチパチと硬質化していく。 月明かりに照らされたナズナは、水晶で作られた彫像のようだった。 「ナズナ!ナズナ!変だよ。  何か変だよ。  ナズナがどんどん薄くなってる」 それは、目の見えないムスカリ特有の感覚だった。 ナズナの生命力のようなものが薄れていくのを、ムスカリは肌で感じ取った。 ムスカリが、焦ってナズナのほうへと歩く。 すでに、ナズナがおかしいことなどばれているのに、それでも、ナズナは自分の異常を少しでも隠そうと、ムスカリから距離をとった。 ムスカリは、手探りでナズナの体を探すが、ナズナは体を触らせようとはしない。 「なんで、意地悪しないでよ。ナズナ。  そこにいるの、わかってるんだから。ねえ、いつもみたいに、触らせて。  お願いだから」 「大丈夫だよ。ムスカリ。大丈夫」 ナズナは、「奴隷の刻限」の痛みに耐えながら、大丈夫だと言い続ける。 硬質化した体が崩れていくが、そんなものにはかまわず、ムスカリに大丈夫だと言い続ける。 「昔、魔女に聞いたんだ。  目が見えるようになる魔法。月夜に使える。俺だけの魔法」 「今はそんな話いいから。ここにいてよ。ナズナ。  貴方だけなの。  私を喜んでくれた人は。  みんな、目が見えない私を憐れむの。  貴方だけが、私の目が見えないことを喜んでくれた。  目の見えない私を憐れまずにいてくれた」 「大丈夫だよ。  目は見えるようになる。  君は憐れまれなくなる」 「そうじゃない。私には。一人が居ればいいの。  私を憐れまない皆が欲しいんじゃない。  ナズナがいてくれれば、それでいいの」 「大丈夫。俺は、ずっと一緒だ」 まるでかみ合わない会話。 ナズナの声の方向へムスカリは飛び込んだ。 ナズナが避ければ、ムスカリは怪我をしてしまうだろう勢いだった。 とっさに、ナズナはムスカリの小さくやわらかな少女の体を受け止め、床へと下ろしてやる。 人の体が温かい。 ムスカリに会うまで、そんなことすらナズナは忘れていた。 ナズナが人に触れる時は、人に傷つけられる時か、人を傷つける時だけだった。 姿全てを神に奪われた罪人として、ナズナはいつでも迫害の対象だった。 透明な体を利用して隠れても、魔法で探し出され、殴られ、蹴られ、傷つけられる。 挙句の果てに、奴隷として盗賊ギルドに売られた。 売ったのは、ナズナの親だった。 つらいことがナズナの人生の大半を占めていた。 だというのに、今、ナズナの脳裏に浮かぶのは、ムスカリとの幸せな日々だった。 初めてムスカリと会った日。 自分に向けられたムスカリの笑顔。 悪意でも殺意でもない笑顔。 親からすら与えられることのなかった。 ムスカリの与えてくれたものを、思い出し、改めてかみしめる。 「ああ、幸せだ」 それが、ナズナという透明人間の最後の言葉だった。 月明かりの下で、硬質化したナズナの体はガラスの様に砕け散った。 目の見えないムスカリに聞こえたのは、ナズナが砕ける音だけ。 砕け散ったナズナの体は、そのまま宙に浮かびあがり、再度あつまる。 昔魔女がナズナに言った。 「月光の下で砕け散った透明人間は、盲人の瞳となる」 ナズナは月明かりの中で、二つのレンズとなった。 そして、そのまま、ムスカリの目の中へと飛び込んだ。 「!!!!」 目の中の違和感に、ムスカリは一度だけ目を閉じ、開いた。 今まで瞳に移っていた暗闇が、消えていた。 そして、その瞳には、今まで見たことのない、月の光で照らされた明るい風景が見えていた。 目が見えるようになったのだと、ムスカリは気付いた。 見たかったものは、もういないのだと、目の前の景色が伝えてきた。 満ちた満月がゆっくりと欠けていく。 ムスカリは一人、孤独に涙を流した。
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