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幸福のための嘘
「今日は、海の話をしようと思う。海とは……」
話をしながら、ナズナはムスカリの手から伝わる温かさに身をゆだねる。
旅人だと嘘をついた。
けれど、いろんな場所を旅したことがあるというのは、嘘ではない。
諜報のために色々な場所を渡り歩いた。
その時々の話をする。
「海と言うのは、とても、ひろい。
水がたくさんあって、きらきら輝いている」
ムスカリに話すのは、いつも美しいものについてだ。
「夕日が出ると、海は赤く染まる。それは、とても美しい」
ムスカリは、ナズナの話をいつも楽しそうに聞く。
美しい景色の裏で、ナズナは泥にまみれ、暴力に震え、人を陥れて生きてきた。
ナズナは、美しいものを見ても美しいとは思えない。
その記憶の裏には、汚い罪の記憶がこびりついているからだ。
「恋人たちは、夕日が海に沈むのを見ながら、夜を待つ」
だから、美しさの描写は情報収集の際に聞いた酒場での世間話であったり、井戸端会議であったり、つまり、伝聞だ。
慎重に、汚い部分(じぶん)をこそぎ落として、美しいものだけをムスカリに語る。
「その情景は、涙が出るほど美しく、胸が張り裂けそうになる」
初めて人の手から、痛み以外のものをを受け取った。
ムスカリから伝わる熱が冷めないように。
爪の先ひとつ、髪の先ひとつも損なわれることがないように。
ナズナは美しい嘘(かんどう)を紡ぐ。
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