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あなたの犬になりたい
ある夜のこと、傍仕えが居なくなると、ムスカリの部屋にナズナが現れた。
ムスカリは、不機嫌そうにそちらへ視線を向けた。
そんなことは、初めてのことだった。
暗やみの中で、透明なナズナの体が、緊張に固まったのが、空気の振動となってムスカリに伝わる。
「ナズナ。こっちに来て」
ためらうように、毛足の長い絨毯が、1mm、2mmとへこむ。
ゆっくりと、絨毯のへこみがムスカリの前まで歩みを進め、止まる。
困惑のまま、ナズナがいつも通り、ムスカリの視線に合わせて屈みこむ。
「ナズナ。貴方、私の傍仕えに水をかぶせたわね」
思い当たることがあった。
ムスカリの傍仕えの態度が気に入らなくて、事故に見せかけて、桶の水をぶっかけたのだ。
「それに、使用人たちも色々と変なことが起こっていると言っていたわ」
それも、心当たりがある。
ムスカリの悪口を言われると、だめだと分かっていても、ちょっとくらいならと、やってしまう。
バレないように細心の注意を払ってはいる。
「お父様にバレれば、ナズナは殺されてしまう」
どんな些細なことでも、塵も積もればだ。
ムスカリの父親が本気になれば、ナズナはネズミのようにいぶりだされてしまう。
透明人間は、そこにいると知らなければ、見つけることは、まずできない。
だが、そこにいると分かれば、簡単に魔法で探し出し、排除してしまえる。
姿が見えないだけの、非力な人間に過ぎない。
「ナズナが私のためを思ってくれてるのはわかってる。
けど、危険なことはやめて。
私は、貴方と一緒にいられなくなるなんて考えたくない」
いつもと同じように、ムスカリがナズナの顔に手を触れる。
その手のひらに、しっかりと伝わるように、ナズナは首を縦に動かした。
ムスカリの眉が緩む。
ナズナの顔を、きめ細かい飴細工の様な指が、滑らかに撫でる。
ぴくり。と、指先の動きが止まる。
「ケガしてる」
そういえば、とナズナは思い出す。
今日は、盗賊ギルドに呼び出され、経過報告をしたのだった。
いくつかの情報を提出したが、それがどう使われるのかは、ナズナにはわからない。
本当は、成果なしと報告したい。
けれど、それをすれば、ナズナは役立たずと処分されてしまう可能性がある。
それは、ムスカリに二度と会えなくなるということだった。
ナズナから情報を受け取っている男は、盗賊ギルドの下っ端だ。
「奴隷の刻限」の制御権を受け取っている。
つまり、今のナズナの主人はその下っ端ということになる。
制御権を持つ主人からの魔力供給がない場合、「奴隷の刻限」はその痛みによって、奴隷の体を破壊し、殺す。
男から魔力を受け取らなければ、ナズナは「奴隷の刻限」が与える痛みによって死に至る。
暴力的な男だ。
ナズナの仕事の出来不出来に関わらず、男はナズナに暴力をふるう。
今日は、炎の魔法であぶりだされたところで、何度も蹴られた。
男は、ただ楽しいからナズナをいたぶっているようだった。
透明人間は、外傷を見られることがない。
例外として、体から流れ落ち、そのまま地面に落ちた血は例外だが、基本的に実際に怪我をしているかどうかは、ナズナ以外に分からない。
「痛そうね。今日は、お話はやめましょう」
ナズナの治療痕をなでて、ムスカリは言う。
「大丈夫だよ」
「ダメ」
思いのほかに強い口調のムスカリに、ナズナは驚く。
傷を与えられることは、幾度もあった。
だが、傷をいたわられることなど、今までのナズナの人生にはなかったことだった。
傷にさわらないように、ムスカリはゆっくりとナズナの顔をなでる。
「私が、犬だったら」
ぽつり。とムスカリがつぶやく。
「私が犬だったら、ナズナの傷を舐めて治してあげられるのに」
「俺も犬がいいな。ムスカリに撫でられるのはすごく気持ちがいいんだ」
二人を照らす月光は、一度新月を経て、日に日に光を増している。
満ちてしまった月が、その後どうなっていくか。
ムスカリも、ナズナも、考えようとはしなかった。
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