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日が暮れてきた。狭い路地裏には、もう夕映えは届きやしない。かろうじて隙間から街の灯りが見えるが、それもそのうち消えるだろう。
「……さっきはありがとな」
薄汚いこの場所であるにも関わらず、全く嫌悪を抱く様子なく俺の隣にちょこんと座った少女に礼を言う。そうすれば、少女は価値の高そうなブロンドの髪を揺らして笑った。
「貴族様みたいな奴が何でこんなクソみたいな場所にきたんだ?」
少女の身なりを見ながら問う。少女は、かなり汚れているが上流階級の人間が身に纏うようなドレスを着ている。首につけられたチョーカーや、手首で揺れるシルバーのブレスレット。どれもが売れば数年は食べ物に困らなそうなものだろうと、素人目でも分かる。
「むうーっ!」
「……お前、喋れねぇの?」
「あ!」
「……そうかよ」
全く理解できない。少女は口を動かすが、紡がれるのは意味のない声だけだ。俺の言葉は何となく理解しているようだが、コイツは言葉を話すことができないらしい。貴族様なのに教育が行き届いていないって、コイツは一体どんな生活をしていたんだ。
「名前はあるか?」
「あー、あ!」
「ない?」
「ん!」
「ないんだな」
少女の反応を見て俺は溜息を吐く。なぜこんなガキと会話しているのか自分でも不思議だった。久方ぶりの理解者だからか。それとも、俺を救ってくれたからか。よく分からない感情のまま、俺はこの不思議なガキの名前を考えている。
野良犬に名前をつけるみたいな感覚だった。勝手に名付けるのはダメかもしれない。
だが、生きるうえで名前は必要だ。コイツはこの世界の中で、どう見ても脇役ではないから。
「……スピカ、とかどうだ?」
俺は少女の赤い瞳を覗き込む。少しの間を置いて、少女の瞳の中に眩しいくらいの光が宿った。
「あー、あ!」
「よく分かんねぇけど、いいんだな」
少女の反応は悪くはなさそうだった。無邪気に腕をぶんぶんと振っている。
「スピカってのはな、ある星の名前なんだぜ。すごい綺麗でよ、このクソみたいな街からでもよく見える」
「んー?」
「ははっ、お前には難しいか」
くしゃっと歪んだ顔を見て思わず吹き出す。これでもかと眉間に皺を刻み、女とは思えないほど不細工な顔をしていたからだ。
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