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スピカと会って数日。俺達は路地に座り込み、本を覗き込んでいた。
開かれた幾つかの本には、この国の言語が羅列されている。所謂、教科書というやつだ。ゴミ捨て場に置かれていたコイツを拝借して、スピカに少しずつ言葉を教えている。俺が言葉を覚えた時も、お人好しな老人が本を読んでゆっくりと教えてくれたっけな。
「どうだ?少しは話せるようになったか?」
「うん!お、はよ……!おや、すぃ!」
「あー、まだちっと分かりにくいが上出来だな」
「あ、りがと!」
スピカは俺の手をぐいぐいと引っ張りながら、何度も礼を言う。スピカは言葉の意味は多少分かるが、話すことはできなかった。それに、どんな環境で育ったのか、見た目に反して中身は随分と幼い。
しかし、頭は悪くないのか、この数日でかなり話せるようになった。進んで言葉を覚えようとしているから、こちらも教えがいがある。
俺はこの薄汚い世界で特別目的もなく過ごしていたから、こうして目的が出来たことは喜ばしくもある。自分に正直に生きるだけで他のことが見えていなかったから、これは俺にとって些細な幸せというやつだ。胸の辺りが仄かに熱いのは、きっとコイツのお蔭なのだと思う。
「ラ、ルク」
「ん?」
「ラルク、は、くぅしくないの?」
「苦しくないかって、何がだ」
「ここ、あぶない、ばっかだから」
スピカはそう言いながら、路地の奥で殴り合いをしている捨て子どもを指さした。周囲の奴等も、苛立ったように舌を打って奴等を睨みつけている。相変わらずゴミばかりが蔓延り、空気も悪い。それら全てをひっくるめて、スピカは「あぶない」と称したのだろう。
「別に苦しかねーよ。慣れた。俺は物心ついた時から此処に居るし、最悪だがここしか俺が生きる世界はねぇんだよ」
「ラルク、それで、いい?」
「言ったろ?これが俺の決めた生き方だって。こんなクソみたいな世界でも、俺が思う通りに生きていけりゃそれでいい。誰かに指図されて生きるのは御免だ」
「……むず、かしい。わかんない」
スピカは俺の言っている言葉は理解しているようだが、その意味は汲み取れていないようだった。汚れているが小綺麗な顔に皺が寄る。
「いいか、スピカ。人にはいろんな生き方があるんだよ。どんな生き方にだって間違いはない。俺みたいに悪い事をして生きる奴も、自分より弱いヤツを嘲笑って生きている上流階級の奴等も、何も間違ってない。他人の生き方にだけは、誰も口出せねぇんだよ」
「そ、なの?」
「あぁ。認めたくはねぇが、アイツらも自分のしたいように生きている。その生き方は自分に正直で良い。それだけは否定しない。……まぁ、俺らをこんな目に遭わせたことは絶対許さねぇけど」
丁度目の前を通ったスラムを偶に視察にくる政治家を睨みつけた。聞こえていたのか、その政治家は嘲笑を道端に吐き捨てて去っていく。どうせ今日も、貧民から何か巻き上げるだろう。今日の標的はアイツだと決め、俺はスピカに向き直る。
「だから、お前も好きなように生きろよ?誰かの命令に従わなくていい。お前はたぶん上流階級のやつだろ?お前は外の世界でも生きていける。俺といるより、そっちの方がお前は自分に正直に生きられそうな気がする」
「……や」
「は?」
「そと、いや」
くしゃり、と教科書のページが鳴いた。目を丸くすると、傷がついた白い手がページを握りしめている。
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