金沢の女

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長いトンネルを抜けると雪国であった。 そんな名作の冒頭を思い出さずには居られない長い敦賀トンネルを抜けると、(あられ)(つぶて)による一斉攻撃が始まった。 あまりの煩さに、温かい車内でうとうとしていた希以子(きいこ)の意識は無理矢理、現実に引き戻されてしまう。 特急サンダーバードは風の強い湖西線を避け、米原周りのルートを取った。 その所為で、約三十分遅れて金沢に着くらしい。 少し草臥れた口調の車内アナウンスが告げた。 高々、三十分の遅れだ。 金沢には後、二時間もしない内に着いてしまう。 そして、その更に一時間後には母と二十年振りに対面する事になる。 希以子は金沢が嫌いだった。 競り合うように咲く桜の下を地味で高価な着物を着た女達がそぞろ歩く春も、ただ蒸し暑いだけの夏も、空が低くて氷雨の降る秋も。 そして、そこに住む人々も。 田舎の人間が純朴で優しいなんていうのは、都会人の偏見だ。 確かに金沢人は一見、柔和で(たお)やかに振る舞う。 絢爛豪華な伝統文化をひけらかす事もなく、常に謙遜し、相手を立てる。 所が本心では相手を見下し、心密かに自分を誇っているような俗物でしかない。 希以子の母はそんな金沢人の(さい)たるものだった。 持ち物は全て、地味だが最高級品。 常に上品に微笑んでいるが、心から笑った顔など、ついぞ見た事がない。 大人達は皆、母の美しさを褒めたが、希以子には家の古い蔵に仕舞われていた、薄汚れた能面と同じようにしか思えなかった。 自分というものがないのだ。 あるのは他人と比較して自分がどれほど優れているかという自負のみ。 そんな詰まらない女だと思っていた。 詰まらない女は希以子に沢山の習い事をさせた。 そして、地味だけど恐ろしく高価で上品な服を着せ、来る日も来る日も淑女たるよう、叱責し続けた。 希以子が深窓のご令嬢のようにも振る舞えるような、高い教養を身につける事になったのは、母のお陰としか言いようがない。 ただ、希以子自身は有難いと思った事などないが。 陰惨とした気分を抱えたまま、スマホを見た。 職場からの連絡がない事を確認すると、持っていた文庫本を開く。 本に夢中になっていれば、いつの間にか少しでも気が紛れると思ったのだ。 所が、本はいつまでたっても、希以子を夢の国へと連れ出してはくれなかった。 仕方がないので、ぼんやりと車窓を眺める。 あれ程降っていた(あられ)はいつの間にか、止んでいた。 山と線路の間の狭い田畑。寂れた集落。 どこもかしこも、すっぽりと白い雪に覆われている。 他の季節には薄汚い工場や安普請の住居が醜く居座る車窓も、この季節ばかりは全てが白銀に輝いていて眩しいばかりだ。 ずっと冬なら良いのに。 希以子は思う。 それなら汚い物が何も見えなくなる。 時折、近くに座る乳飲み子が大声で泣き、その都度、若い母親があやしながら、車両を出る。そして泣き止むと戻ってくる。 その(たび)に開閉する自動ドアから冷気が忍んできて、身震いがした。 その内に、物悲しいイントロと共に、無機質な自動放送が金沢への到着を告げた。 「間も無く終点、金沢、金沢。どなた様もお忘れ物の無いよう、今一度、お手回品をご確認下さい」 他の乗車客に混じり、希以子も手荷物をまとめ、電車を降りる準備を始める。 先程の乳飲み子を抱いた若い母親、学生風の若い男、くたびれたスーツのサラリーマン風の男、ダウンジャケットを肩に掛け、半袖Tシャツの外国人、観光に来たと思わしき、四人組の若い女性などなど。 但し、希以子のように薄いコートを着ている者は誰一人として居ない。 車内から出た瞬間、鋭利なナイフのような冷たい空気が頬を撫でる。 電車の到着を知らせる琴の音。 忙しく行き交う人々。白山そば。 昔と変わらぬ、金沢駅のホームだった。 そのまま、駅を出て、バスで東山(ひがしやま)(金沢市内の地名)に向かう。 臙脂とクリーム色の北鉄バスが動き出すと、町並みが随分と変わっている事に気づく。 過ぎた時間の長さを思わずにはいられなかった。 バスを降りると、足元が悪い。 融雪装置で溶けた雪が水溜りのようになっていて、歩く都度、希以子のパンプスに冷たい氷水が入り込む。 冷えた気持ちのまま、ベンガラ格子の古い町並みを急いだ。 「ご無沙汰しております」 実家の玄関引戸を開け、挨拶すると、中から母が出てきた。 希以子の足元を見ると、無言で引き返し、中からタオルを持って戻ってくる。 「これで足、拭いて上がりなさい(上がんまっし)」 タオルを受け取って、足を丁寧に拭う。 すると、その横で母が希以子のパンプスの中に新聞紙を詰め始めた。 「どうせ帰りも濡れるから良いわよ」 「帰りは駅まで送ってあげるわ。だから靴が乾くまでは家に居なさい(居るまっし)」 そして、私の足が拭き終わるのを待って、居間へと案内してくれた。 出て行く前から、全く変わっていない。 「アンタが出て行って、何年程経ったかね?」 「ちょうど、二十年」 「そうかいね。早いね」 「うん」 母が淹れてくれた加賀棒茶を口に含んだ。 金沢にしかない、でも金沢では当たり前の普段着みたいなお茶。 氷のように冷たかった心がじんわりと溶けていく。 「お母さん、私、あの時、結婚したくなかったの(てん)」 ずっと言えなかった言葉。 すると母がしみじみとした口調で答えた。 「そうやろうね。でも、あの時は分からなかった(分からなんだ)わ。 アンタ、考えとる事、顔に出さんし。 誰に似たんだか、能面みたいやもんね」 「能面って。それ、そのままお母さんじゃん(やがいね)!」 そう言うと、母が破顔した。 自然な笑顔に唖然としていると、母が笑いを堪えるように苦しそうな声で呟いた。 「アンタも金沢の女なんだね(ねんね)。 ずっと言えなかったんだね(んでんね)。 察してあげれんで、本当にごめんやったわ」 実は高校二年の頃、希以子に縁談の話が持ち上がったのだ。 お相手は有名料亭の跡取り息子、三十歳。 乗り気な母が話を進め、あれよあれよの間に希以子が高校卒業するのを待って、結婚する事になってしまったのだ。 それがどうしても嫌だった希以子は、高校の卒業式の次の日、家出を敢行する。 行き先は大阪。住み込みのバイトをして、今まで何とか生計を立ててきた。 実家には一切連絡していない。 所が最近、結婚したい人が出来た。 その彼が母との仲直りを勧めたのだ。 『僕は家族みんなに希以ちゃんとの結婚を認めてもらいたい。 ちゃんと挨拶に行けるくらいには、関係を修復しておいて欲しい』 だから今日は二十年前の(わだかま)りを解きに来た。 そして、彼の話をしようと思う。 取り澄ました母が卒倒しないように、ゆっくりと。 時間はたっぷりある。 言えなかった事を全部言い合うくらいに。 そして、希以子は思い出した。 実は冬より、桜が満開になる春の金沢の方が好きだった事を。 見栄を張り合う女達の着物を見るのも楽しみだった事を。 春になったら、彼と二人でもう一度、金沢に来ようと思う。
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