第弐話

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第弐話

 アレスは止まることなく、妻セリアの髪を梳いている。 「今はこんなおばあちゃんになってしまったから誰も信じないでしょうけど、私は50年前に滅んだ、ユリシア王国の王女だったのよ。国は敵国だったザルトルスに滅亡させられてしまった。ザルトルスもすぐに他の国に滅ぼされて今はなくなってしまったけれど」 「そんなこともありましたね……」  アレスは語り続ける妻を、悲しげな目で見つめている。 「私の両親であった王と王妃は、ザルトルスが攻めてくる直前、私を逃がしてくれたの。遠い場所で幸せになるようにと。泣きながら逃げ延びたことは今でも忘れることはできない。私は許せなかった、大好きだった両親を、そして王国を滅ぼしたザルトルスが。だから復讐を誓ったの。ザルトルスの軍を率いていた王子を殺してやると。ザルトルスもまたユリシア王国と同じように滅びてしまったけれど、王子は逃げ延びたと聞いた。王子を探し続けて、やっと見つけたの。ザルトルスの王子アレスを……」  曇り始めた空が、少しずつ荒れ始めていた。風が強くなってきている。 「私はずっと、あなたを殺してやろうと思っていたわ。復讐の機会を掴むため、あなたに近づき結婚した。これでいつでも殺せる──。そう思ったのに……できなかった。その機会は何度も何度もあったのに、どうしてもあなたを殺せなかった」  アレスは再び、セリアの髪を梳き始めた。何事もなかったかのように。 「知っていましたよ」  アレスはセリアに言った。 「やっぱり気付いていたのね」  セリアはまた、少女のように笑った。 「ええ、知っていました。出会ったときから貴方がユリシア王国の王女であることを知っていましたから」 「まぁ、そうだったの」 「わたしは貴女に、いつでもいいから殺してほしいと思っていました。殺されても仕方ない、それだけのことをしたと思っていましたから」  セリアから笑い声が消えた。 「セリア、わたしもね、あなたに秘密にしていたことがあるんです」 「まぁ、気が合うわね。何かしら」 「わたしは王子アレスではないのです。私は身代わりだったのですよ。本物の王子は早々に他国に逃げました。数年後に亡くなったと聞いていますがね。わたしは偽の王子なんです」  風がセリアの長い髪を揺らす。妻は夫の話を黙って聞いていた。 「……知っていたわ。あなたが偽の王子であることを。結婚して数年後に気付いてしまった」 「やっぱりご存知だったのですね」  セリアは小さく笑った。 「だってあなた、私に対してずっと敬語なんだもの。いつだったか、寝ぼけて私を『姫様』と呼んだこともあったわね」 「そうでしたか。それは失礼しました」  男は微笑みながら、妻の髪を梳く。その手を止めることはなかった。 「私は元王女だったから、最初は何もできなかったわね。料理も失敗だらけだった。でもあなたは私のどんな料理も『美味しいです、美味しいです』って全部食べてくれた。あなたに心から美味しいと思ってほしくて、すごく頑張ったのよ」 「ええ、貴女の手料理は本当に絶品でしたよ。最初は確かに失敗がありましたけどね」 「あら、私の失敗も覚えているのね」 「もちろん。あなたのことは何一つ忘れてはいません」  夫婦は共に笑った。復讐を誓った妻と、殺されることを願った夫の姿とは思えなかった。 「あなたとの生活は幸せだったわ」 「わたしもですよ、セリア」 「幸せだと感じれば感じるほど、私はどうしてもあなたに言えなかった言葉があるの。国を捨て、ただひとり逃げ延びた元王女ですもの。戦争で多くの人が死んだわ。私は幸せになってはいけない。そう思ったわ」 「…………」 「家庭をもち、子供を産んで、子供たちも全員巣立っていった。そんなあたりまえの生活が、幸せでたまらなかった。幸せだと思うほど、あなたにどうしても言えない、言ってはいけない言葉があるの。私はもうじき天に召される。最後の時を迎える人間なら神様も、ユリシア王国の皆も、許してくれるのではないかと思うの」 「そんなこと言わないでください、セリア。わたしと一緒に生きてください」 「悲しいけど、私にはわかる。アレス、あなたも本当は知っているでしょ?」  アレスの手が止まった。 「だから最後に言わせて。言えなかった言葉を」 「わたしもあるんですよ、セリア。言えなかった言葉が」 「あら、奇遇ね。では一緒に言いましょう」 「ええ、そうしましょう」  アレスは妻の前に回り込むと、片膝をつき、妻セリアの手を取った。 セリアが微笑み、アレスの頬を両手で包み込む。 「あなたを愛しているわ」 「貴女を愛しています」  その言葉は夫妻が初めて口にする言葉だった。罪を背負った二人にとって、その言葉だけはどうしても言えなかったのだ。 「あなたの妻になれて本当に幸せだった──」  数日後、妻セリアは静かにこの世を去った。  妻を見送って一年後、夫も妻の後を追うように天に召された。その手には、妻の髪を梳き続けた櫛が固く握りしめられていたという。 「天国で妻の髪を梳いてあげるんですよ。妻はきっとわたしを待っていますから……」  男が最後に言い残した言葉であった。          了  
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