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◆二〇四〇年・三月二六日
あの時の私は本当に愚かだったと、タイムマシンを目の前にして過ちを振り返る。
真空という無から有を生み出すエネルギー。それは宇宙誕生と同じ性質のエネルギーと言える。あの時の私はその事について完全に舐めていた。私が作った装置は生み出されたエネルギーを制御できず、計算していたよりもずっと巨大なものへと急速に膨れ上がり――瞬きする間に、暴発した。
それは本当に巨大な爆発だった。核兵器なんて赤子レベル。半径五十キロメートルを瞬く間に消し飛ばし、そこから放たれた爆風は何百キロにも渡って様々なものをなぎ倒していった。その衝撃は地殻も揺らし、広範囲に渡って震度七以上の地震をもたらして。消し飛ばした際に生まれた水蒸気は、様々な化合物が集まった巨大な雨雲となり、それは至る所へ洪水を起こす大雨を降らしていった。爆発と、その他もろもろの巨大すぎる二次災害によって、日本の三分の一が壊滅した。
私は――私はすぐさま世間から大罪人扱いされた。当然だ。私は何千万人もの人に被害を及ぼしてしまったんだから。けれどそんな私が大罪人として法で裁かれたかと言われれば、結局、そうならなかった。何故なら私が起こした事はテロ目的でも殺人目的でもなく、形としては本当に、ただの事故だからだ。私は研究者を辞め、世間の目から隠れるために隠居をする事しかできなかった。
もうここ一年以上、表になどほぼ出ていない。日の光をまともに浴びていない。仕事だってできていない。ただただ、貯金を崩して細々と生き、この大罪人の命をどうするか考える日々。そんな日々で導き出した結論を、私はようやく実現する。私の手で、この大罪人の命を裁くんだ。あの日殺した何千万人の命を救うんだ。
体の負担を軽減する特別なスーツを着て、数多の凶器をタイムマシンの荷台に詰め込む。この日に備えてマニュアルは何十回も読み込んだ。大丈夫。さあ行こう。私を殺す旅に。コックピットに乗り込んで、時間座標を打ち込む。行き先はーー『二〇三四年・十一月十五日』だ。
◆二〇三四年・十一月十五日
強い衝撃を覚えてから機体の振動が止まり、世界が静かになる。着いたのだろうか。タイムマシンに備え付けられた時計は『二〇三四年・十一月十五日』を指し示していた。念のために持ち込んでいた電波時計を使用すれば、同じ日時が表示される。どうやら間違いないらしい。
窓の外を見れば誰もいない林の中。GPSで場所を確認すれば、転移先の座標も計算通り。時刻は夕方頃。今から歩いていけば十分待ち伏せできるはずだ。私がいつも歩いていた帰り道で。バッグに包丁やナイフ、ロープやガムテープ、最終手段の拳銃を隠し、確固たる意思を持ってタイムマシンを降りる。扉にロックをかけた後、目的地へ向かって歩き出した。
この日付を選んだのは、エネルギー開発の理論が完成するより前だからだ。とにかくあの理論を完成させてはいけない。そのまま闇に葬ってしまうしかない。理論を完成させてしまったら最後、たとえ生みの親の私が死のうが誰かが実行してしまう可能性があるからだ。あれはそもそも人間にとって恐ろしく危険な物だ。あの破壊力が軍事転用などされてしまったら地球など持たないだろう。だから、生まれない方がいい。生まれる前に、生みの親を殺すしかない。
一歩一歩歩くたび、心に不思議な高揚感が湧き上がる。胸が煩く騒ぎ、それに合いの手を打つよう荒がる息を必死に押し殺す。落ち着け。落ち着くんだ。まだ何も終わっていないのだから。ああでもようやく。ようやく私は自分の罪を贖うことができるのだと考えたら、落ち着くのも難しい話だった。何も終わっていないのに勝ち誇ったように叫びたくなる衝動を抑え込み、殺意の竈に焚べていく。殺す。私を殺すんだ。そしてすべての苦痛から開放されるんだ。
長い長い、永遠と思える時間を歩いて。ようやく目的の場所にたどり着く。私がいつも通る帰り道、私はいつだってこの角を不用心に曲がる。そんな角の内側にある駐車場。そこに停めてある車の影に身を潜めた。ここはいつでも死角だった。ここから突然襲いかかられたら、恐らく私は何も抵抗できないまま不意を突かれるだろう。当時の私はいつも行き帰りに音楽を聞いていたはずだから物音にも気付きにくいはずだ。
ああ、早く、まだ自分が何を犯すか識らないその間抜けなツラを、恐怖に叩き落として死に染めたい。影の外を覗いながら、じっと息を殺す。刻一刻と、予想していた時間が迫る。早く。早く来い。化け物と大罪を生み出したその脳を止めてやる。生命の死を持って壊してやる。だから早く来い。来い。
騒ぎすぎる心臓は今にも張り裂けそうだった。息を殺すことで呼吸もままならないからか、後頭部が痺れていった。ただ頭の中を殺意と焦燥と高揚が支配する。早く。早く早く。早く来い。早く早く早く。早く早く速く疾く早くはやくはやくはやくはやく――
――世界が、静止した。アッシュブラウンのパーマがかったミディアムボブ。シワひとつないピンクベージュのトレンチコート。つまらなそうに疲れている、けれどまだシワがない化粧をしっかり決めているその顔。間違いない。私だ。五年半前の私。五年半分若い、無知で愚かな私。まだ何も知らない、大罪人の種。
来た――
心臓が。一際大きく悪く高鳴った。その高鳴りが私に悪魔のように囁く。今だ、今だ今だ。ナイフを手に立ち上がり。早く。そのまま駆け出した。殺す。眼前の女がこちらを見た。殺す。殺す。殺す! こちらを捉えたその眼が大きく見開かれる。
死ね!!
酷く鈍く汚い衝撃が私の腕を震わせた。酷くくぐもった汚い音が女の喉から発せられた。普通ならあり得ないほど私は女の体にめり込んでいる。でもまだだ。まだ、まだまだまだ。死んでないまだ死んでいない殺す殺す殺す。勢いで地面へ突き倒し、すぐさま馬乗りした大罪人の体に、何度も何度も血濡れた刃を突き立てた。突き立てるリズムに合わせて汚い悲鳴がその体から奏でられる。生に縋りつきたい意地汚い音だ。煩い、お前にその権利はない。煩い、五月蠅い、うるさい! 早く死ね。死ね。死ね! 早く、早く死んでくれ! 大罪人! 人殺し! 悪魔! 最低な悪魔! 大罪人! 死ね! 間違える前に死ね! 今なら間に合う! 死ね! 死ね! 死ね死ね死ね死ね!
「……は」
ひとしきり衝動が過ぎ去って、眼下を見れば、組み敷いた大罪人の目から光が抜け落ちている。生の光が抜け落ちている。それは人が真っ赤な肉塊に墜ちた証。一切動かない物言わぬ肉塊。そんなもの、ただの有機物の塊だ。深紅の血も命の暖かさが失われ、ただの赤黒い泥のようなものになっていく。
は、ははは。やったんだ。大罪人を殺したんだ。私は殺したんだ! 過ちを犯す前に私を殺せたんだ! 殺せた! 私は殺せた! 私を! 大罪人になる私を! 大罪人になる前に! はは! はははは! ははははははは、ははははは
「…………………………………………………………」
……なぜ、私は生きているんだろう? 目の前では確かに私が死んでいる。過去の私が死んでいる。だとしたら、私は何故生きているんだろう? もしかして、これは私ではなかったのではないか。もしかして、別の人を殺してしまったんだろうか……? いや、そんなはずは、ない。この顔は私の顔だ。この時間にこの道を歩くのも間違いなく私だ。
だったら何故、私は、死んでない……?
「……っ!」
考えては行けない、そんな恐怖の悪寒が背中を奔って、震える足で立ち上がると駆け出した。早く戻ろう。戻って未来が変わっている有様を目にしよう。そう思うけれど、足がうまく動かない。もつれる。私自身の息がただただ荒くどこまでも煩い。返り血で服が張り付き固くなり始め、枷となっていく。何度も何度も転びそうになりながら、タイムマシンに向かって必死で足を前に出した。数少ない道行く人が私を見て悲鳴を上げる。当然か。今の私は血にまみれた異常者なのだから。でも大丈夫だ。大丈夫。私は未来の大罪人を殺しただけ。あなたたちのために行った殺しだ。そんな私はもうこの時間からいなくなる。未来でもしも指名手配されていたら、その時は自らお縄につこう。だから今は。今だけは。
一瞬のような永遠のような長い時間をかけてようやくタイムマシンにたどり着いた。転がり込むように中へ入り、コックピットに縋り付く。定まらない手でスーツを着用し、なんとかシートベルトを締めた。そのまま慌てて時間座標のパネルをタッチする。行き先は『帰還』。転移前の時間に戻るコマンドだ。それを設定してから発進操作を行えば、機体が震え、凄まじい圧力が私の体を覆い潰した。
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