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岬さんは、きっかり二時にやってきた。私を認めると、「お久しぶりです」とやわらかに微笑んでくれた。私を見つめる瞳には、何のためらいも含みも感じられなくて、私は、肩や手のひらにこもっていた力を持て余す。「いつもありがとうございます」と頭を下げて、シャンプー台に案内した。
シャンプー後、セット椅子に移動した。「どうされますか」と尋ねると、「お任せします」と返ってきた。いつもと同じやりとりだ。二十代後半がターゲットのメンズ雑誌を参考にしながら、夏らしい、少し短めの髪型を提案する。「じゃあそうします」と岬さんは微笑んだ。このやりとりも、いつもと同じものだ。
「あの、実はお願いがありまして」
岬さんが切り出したのは、ある程度、髪型ができたときだった。
「また、うちの雑誌に出てもらえませんか。読者モデルの子が、美容室やエステを体験するってコーナーがあって、工藤さんに施術をお願いできたらと思っているんですけど」
岬さんはタウン誌の編集者だ。私がいったんシザーを置くと、岬さんは言葉を続けた。
「店長さんにも、少しお話してるんです。工藤さんが大丈夫なら、会社から正式に依頼をかけます」
話を聞いてみると、以前受けたようなロングインタビューではないらしい。少し考えて、「私でよければ」と答えると、「ありがとうございます」と岬さんは、ほっとしたような顔をした。私はカットを再開する。
「わざわざ、それを言うために来てくださったんですか。電話でも全然……」
「いえ。そろそろ工藤さんに髪を切ってもらいたかったんです。でも、」
岬さんは一旦言葉を切った。数秒の間があって、苦笑交じりの声が続いた。
「実は、この話は口実なんです。仕事だって言い聞かせないと、顔を合わせる勇気がなかったから」
どくん、と心臓が音を立てたのが分かった。
「この前は、すみませんでした」
「いえっ、そんな、謝られることじゃ……だって、」
――あのキスは、私も受け入れるつもりだったから。
そう言おうとした。けれど、鏡に反射する光が明るい。隣のセット面からは、後輩の玲香ちゃんと、常連の坂口さんが話している声が聞こえてくる。からからに乾いた喉から、辛うじて、「その、私こそすみません」なんて言葉を引っ張り出した。――でも、どうしよう。これじゃ、岬さんが悪いことをしたみたい。
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