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一年ほど前、俺は好美という女性と結婚した。
出会いは、俺が就職面接で会社に来た時、会場の場所がどこだかわからず戸惑っていると、受付嬢をしていた彼女が親切に案内をしてくれた。
その時の優しい笑顔に、俺は一目惚れをしたのだ。
入社後は仕事に集中し、彼女とも挨拶をする程度だった。
それから半年過ぎて少しずつ仕事に慣れて来た頃、俺は思い切って彼女に連絡先を渡した。
そして彼女を食事に誘い、交際に発展し、ついには結婚することになった。
彼女との結婚生活は、とても穏やかで幸せだった。
また半年後には妻の妊娠がわかり、生まれてくる我が子との生活を思い浮かべ、幸せすぎて俺の顔は緩みっぱなしだった。
そんな俺を見て、上司も同僚も呆れていた。
だが、そんなのことは気にしない。
少しずつ大きくなる妻のお腹に触れるたび、俺は生命の神秘を感じていた。
妻から我が子の性別が女の子だと聞かされた時には、俺は力強くガッツポーズをした。
そんな幸せ絶頂の時、大学時代の友人から電話がきた。
友人は興奮気味に、「おめでとう!」と言った。
すでに一児の父親だった友人から、出産を立ち会う時のアドバイスや子供の話を聞いた。
久しぶりに一時間近くも話してしまった。
そして、電話をそろそろ切ろうとした時、友人は急に声のトーンを落としこう言った。
―マリエが亡くなった。
それを聞いて、記憶の底に沈めた淀みが巻き上がった。
マリエというのは大学時代に一年ほど付き合った女性のこと。
付き合おうと言ったのは俺からだった。
彼女は小柄で大人しく内向的だったが、彼女の吸い込まれそうな瞳と艶やかな黒髪、口元にあるホクロが魅力的だった。
俺が話しかけると、マリエは俺の目をじっと見つめながらニッコリと微笑み、ポツリポツリと一言二言、溢すように話す子だった。
マリエの目は、俺の事をいつも離さなかった。
マリエは心配性だった。
いつも俺の後ろをついてきて、男友達といてもマリエは離れない。
かといって話に混ざることはない。
最初は、愛されてるなぁ~なんて言ってた連れも、次第に気味悪がりだした。
女友達と話している時には、マリエは俯きながら小さな声で独り言を呟いていた。
女友達がマリエに話しかけると、鬼の形相で睨み返していた。
だから、周りはみんなマリエを恐れた。
マリエは、毎日メールを寄越した。
どれも他愛ない内容ばかり。
俺が返信をしないでいると、必ず電話がかかってきた。
だが、マリエは自分の言葉が少なく、俺が話しかけなければ沈黙が流れるだけだった。
それでも、俺の声が聞きたいとかけてきた。
電話にも出ない時には、家のインターホンが鳴る。
マリエだ。
俺がいない時でも、マリエは玄関の前に何時間も立ち尽くし待っていたそうだ。
マリエの執着や嫉妬は、どんどんひどくなっていった。
私だけを見て
私だけに声を聞かせて
私だけを愛して
私だけのあなたでいて
そんなメールが立て続けに送られてくるようになった。
俺は頭がおかしくなりそうだった。
だから、マリエと別れることを決めた。
ある時、マリエとよく行っていた喫茶店で待ち合わせた。
待ち合わせの時間から十分ほど過ぎてマリエは現れた。
いつもよりもおしゃれをしていた。
マリエは紅茶とケーキを食べながら、今日の為に買ったのよ、と上機嫌に服の自慢をした。
出会った頃よりは、マリエも自分の話をするようになっていた。
コーヒーを飲みながら世間話や大学でのことを一通り話した後、俺は膝に手を置きマリエに別れ話を切り出した。
マリエは、現状を理解していないのかキョトンとしていた。
だが、念を押すように「別れてほしい」と伝えた瞬間、マリエが豹変した。
にこやかだった表情が、一気に険しくなった。
絶対に嫌だと拒絶し、俺が一方的に別れを告げると、マリエは店内で発狂しながら暴れた。
別れるなら死ぬ。
手にしたフォークで自らの首に突き立てようとしたが、間一髪のところで喫茶店のマスターが止めた。
だが、そのフォークがマスターの手に突き刺さり、傷口からボタボタと血が滴り床を赤く染めた。
店内はパニックになったが、当のマリエはマスターを心配するどころか、息を荒げながら血のついたフォークを握りしめ、見開いた目で俺をじっと見つめていた。
情けないことに、俺は恐怖で腰が抜けていた。
誰かが言った警察という言葉で我に返ったマリエは、動揺しながら店を飛び出して行った。
残された俺は事情を話し、マスターに土下座をして謝った。
結局、マスターの温情で警察沙汰にはならなかった。
家に帰ると、恐ろしいほどのメールが俺の携帯に届いていた。
別れたくない。
そんな内容だった。
仕方なく、俺はマリエを刺激しないように半年ほど恋人関係を続けた。
そして、大学を卒業と同時に姿を消した。
携帯も変え、就職先は嘘を教え、離れた土地で一人暮らしを始めた。
家族、友人に協力してもらい、マリエに俺の居場所がわからないようにしてもらった。
マリエはただ一途だったんだ。
けれど、俺には荷が重すぎた。
マリエの事を大切にしてくれる人が、いつか現れることを祈るしかなかった。
それから約五年、実家にも帰らず、大学にもマリエの住む町に近づかなかった。
おかげで俺の前にマリエが現れることもなかった。
俺は仕事が忙しくなり、マリエのことは記憶の底に沈めた。
そして、俺は好美と出会い、結婚をして、子が生まれようとしている。
俺はすごく幸せだった。
そんな時に、マリエが死んだと知らされた。
マリエの死因は病死という噂だが、詳しくはわからないそうだ。
葬儀も密葬で済ませたらしく、家族以外に参列した者もいないらしい。
友人は、俺が幸せ絶頂の中で知らせるべきか悩んだようだが、マリエは大学を卒業してもずっと俺のことを探していたらしく、何度も何度も連絡先を聞いてきたという。
それはマリエが死ぬ半年ほど前までずっと。
あまりにマリエが不憫で、せめて亡くなった事だけでも伝えてやりたかったと友人は言った。
俺は友人に礼を言い、電話を切った。
そして迷っていた。
マリエの墓に線香をあげに行くべきかを。
あの時言えなかった言葉を、そこで伝えるべきかどうか。
迷った挙句、妻に相談した。
マリエの事を包み隠さず話し、俺はどうするべきかと。
妻は、気になっているなら行った方がいいと、マリエが眠る墓まで付き添ってくれることになった。
そして数日後、大学の四年間一人暮らしをしていた町に戻って来た。
マリエとのことがなければ、もしかしたら今でも住んでいたかもしれない。
とても住みやすい町だった。
俺は妻と駅を降りると、あの頃はなかった駅前の花屋で仏花を買い、タクシーで寺に向かった。
寺の場所は、友人が教えてくれた。
駅から30分ほど車を走らせた高台の上。
町が一望できる場所に寺の本堂はあり、そこから階段を上った先に墓地があった。
長旅で疲れていた妻を本堂の近くにあったベンチで休ませると、俺は花と線香を持って階段を上った。
階段の先には、細い砂利道を挟んでいくつもの墓が並んで建っていた。
墓石の大きさは様々で、俺は藤巻家と彫られた墓を探し歩いた。
いくつかの墓前には花が飾られ、中には線香の煙が揺らめいているところもあった。
大半が綺麗に掃除されていて、参拝者を待ち焦がれているようだった。
中には枯葉や苔で汚れ、墓石に彫られた名前もわからぬほど放置されているものもあった。
周りを見渡せど、参拝に来ているのは俺だけのようだった。
そして、藤巻家の墓を見つけた。
側面を見るとマリエの名前と享年が書かれ、墓前にはまだ美しい花が供えられていた。
きっと家族が供えたのだろう。
線香はすでに燃え尽きていた。
俺は持っていた線香と花を供えると、手を合わせて目を閉じた。
あの時、マリエに言えなかったことを、今なら伝えられる。
ーすまなかった。お前を愛してやれなくて。
マリエから逃げるように去った俺。
だから、謝ることもできなかった。
本当にすまない。
俺は心から謝った。
ふと暖かな風が吹き抜けた。
許されたような気がした。
俺は目を開け、マリエに別れを告げた。
『やっと見つけた』
俺の背後でマリエの声がした。
全身に鳥肌が立ち、咄嗟に振り返ったがそこには誰もいない。
ただ墓石が並んでいるだけ。
気のせいだとわかっていても、その声は耳にこびりついた。
嫌な予感がした俺は早々に妻が待つ本堂まで戻った。
妻は俺の顔を見て怪訝な顔をした。
「大丈夫? 何かあった?」
「だ、大丈夫。帰ろう」
俺はかなり動揺していたが、妻はそれ以上詮索してはこなかった。
あの声はきっと、罪悪感から聞こえた幻聴だ。
そうに違いない。
妻には心配かけたくない。
今は、これからもっと幸せになるための大事な時期。
マリエのことは早く忘れよう。
そう思っていた。
だが、あの声を聞いてからというもの、誰もいない背後から足音が聞こえ、誰かの気配を感じるようになった。
夜、ベッドで横になっていると、墓前で聞こえたマリエの声が頭の中を巡った。
俺の精神はどんどん追い込まれていった。
マリエの墓なんかに行かなければよかった。
行くことを勧めた妻をも恨みそうになった。
そんな中、妻がついに我が子を出産する時が来た。
陣痛が始まり、急いでかかりつけの産婦人科にタクシーで向かった。
苦しむ妻の手を握り、俺はただただ声をかけながら見守った。
出産に立ち会うことは、妊娠がわかった時から決めていたこと。
握った俺の手を、妻は強く握り返す。
それは力強くて、時々痛くて顔が歪んだ。
それでも俺は手を離さなかった。
妻はずっと悲鳴をあげながらも、分娩台の上で頑張っていた。
そして数時間後、医師と助産婦の歓喜の声とともに娘が生まれた。
娘の元気な産声が聞こえ、俺も妻も安堵した。
助産婦が生まれたての娘を真っ白なタオルで包み込むと、そのまま俺の方に近づいてきた。
「元気な女の子が生まれましたよ」
そう言って、娘の体をこちらに傾けた。
妻の手を握り続けていた俺の足腰は限界を越えていたが、愛しい娘の顔が拝めると思うと疲れが吹っ飛んだ。
俺は、そっと娘の顔を覗き込んだ。
「ああ、鼻が俺に似ている」
自分に似ている娘を見て幸せを感じていた。
すると、娘の閉じていた目がゆっくりと開き、俺の方を見た。
もう目を開けるのかと驚いていると、娘はニッコリと微笑んだ。
その時、娘の口元に小さなホクロがあることに気が付いた。
まるでマリエのようだ。
俺はそれを見て鳥肌が立った。
助産婦は俺から離れると、今度は母親になった妻の隣に娘を寝かせた。
妻は涙を流しながら、眠っている我が子を優しく撫でた。
考えすぎだ。
そう思い、俺は妻を労った。
あれから数年が経った。
成長する娘は、周りから俺によく似ていると言われる。
それは素直に嬉しい。
妻は、目元が私に似ていると浮かれている。
確かにそうだと俺も思う。
だが、ふとした瞬間に娘がマリエの顔に見えてならない。
それは決まって娘が俺を見て微笑んでいる時。
そんなことはあるはずもないのに。
娘は今日も、パパから目を離さない。
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