元カノ

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
一年ほど前、俺は好美という女性と結婚した。 出会いは、俺が就職面接で会社に来た時、会場の場所がどこだかわからず戸惑っていると、受付嬢をしていた彼女が親切に案内をしてくれた。 その時の優しい笑顔に、俺は一目惚れをしたのだ。 入社後は仕事に集中し、彼女とも挨拶をする程度だった。 それから半年過ぎて少しずつ仕事に慣れて来た頃、俺は思い切って彼女に連絡先を渡した。 そして彼女を食事に誘い、交際に発展し、ついには結婚することになった。 彼女との結婚生活は、とても穏やかで幸せだった。 また半年後には妻の妊娠がわかり、生まれてくる我が子との生活を思い浮かべ、幸せすぎて俺の顔は緩みっぱなしだった。 そんな俺を見て、上司も同僚も呆れていた。 だが、そんなのことは気にしない。 少しずつ大きくなる妻のお腹に触れるたび、俺は生命の神秘を感じていた。 妻から我が子の性別が女の子だと聞かされた時には、俺は力強くガッツポーズをした。 そんな幸せ絶頂の時、大学時代の友人から電話がきた。 友人は興奮気味に、「おめでとう!」と言った。 すでに一児の父親だった友人から、出産を立ち会う時のアドバイスや子供の話を聞いた。 久しぶりに一時間近くも話してしまった。 そして、電話をそろそろ切ろうとした時、友人は急に声のトーンを落としこう言った。 ―マリエが亡くなった。 それを聞いて、記憶の底に沈めた淀みが巻き上がった。 マリエというのは大学時代に一年ほど付き合った女性のこと。 付き合おうと言ったのは俺からだった。 彼女は小柄で大人しく内向的だったが、彼女の吸い込まれそうな瞳と艶やかな黒髪、口元にあるホクロが魅力的だった。 俺が話しかけると、マリエは俺の目をじっと見つめながらニッコリと微笑み、ポツリポツリと一言二言、溢すように話す子だった。 マリエの目は、俺の事をいつも離さなかった。 マリエは心配性だった。 いつも俺の後ろをついてきて、男友達といてもマリエは離れない。 かといって話に混ざることはない。 最初は、愛されてるなぁ~なんて言ってた連れも、次第に気味悪がりだした。 女友達と話している時には、マリエは俯きながら小さな声で独り言を呟いていた。 女友達がマリエに話しかけると、鬼の形相で睨み返していた。 だから、周りはみんなマリエを恐れた。 マリエは、毎日メールを寄越した。 どれも他愛ない内容ばかり。 俺が返信をしないでいると、必ず電話がかかってきた。 だが、マリエは自分の言葉が少なく、俺が話しかけなければ沈黙が流れるだけだった。 それでも、俺の声が聞きたいとかけてきた。 電話にも出ない時には、家のインターホンが鳴る。 マリエだ。 俺がいない時でも、マリエは玄関の前に何時間も立ち尽くし待っていたそうだ。 マリエの執着や嫉妬は、どんどんひどくなっていった。 私だけを見て 私だけに声を聞かせて 私だけを愛して 私だけのあなたでいて そんなメールが立て続けに送られてくるようになった。 俺は頭がおかしくなりそうだった。 だから、マリエと別れることを決めた。 ある時、マリエとよく行っていた喫茶店で待ち合わせた。 待ち合わせの時間から十分ほど過ぎてマリエは現れた。 いつもよりもおしゃれをしていた。 マリエは紅茶とケーキを食べながら、今日の為に買ったのよ、と上機嫌に服の自慢をした。 出会った頃よりは、マリエも自分の話をするようになっていた。 コーヒーを飲みながら世間話や大学でのことを一通り話した後、俺は膝に手を置きマリエに別れ話を切り出した。 マリエは、現状を理解していないのかキョトンとしていた。 だが、念を押すように「別れてほしい」と伝えた瞬間、マリエが豹変した。 にこやかだった表情が、一気に険しくなった。 絶対に嫌だと拒絶し、俺が一方的に別れを告げると、マリエは店内で発狂しながら暴れた。 別れるなら死ぬ。 手にしたフォークで自らの首に突き立てようとしたが、間一髪のところで喫茶店のマスターが止めた。 だが、そのフォークがマスターの手に突き刺さり、傷口からボタボタと血が滴り床を赤く染めた。 店内はパニックになったが、当のマリエはマスターを心配するどころか、息を荒げながら血のついたフォークを握りしめ、見開いた目で俺をじっと見つめていた。 情けないことに、俺は恐怖で腰が抜けていた。 誰かが言った警察という言葉で我に返ったマリエは、動揺しながら店を飛び出して行った。 残された俺は事情を話し、マスターに土下座をして謝った。 結局、マスターの温情で警察沙汰にはならなかった。 家に帰ると、恐ろしいほどのメールが俺の携帯に届いていた。 別れたくない。 そんな内容だった。 仕方なく、俺はマリエを刺激しないように半年ほど恋人関係を続けた。 そして、大学を卒業と同時に姿を消した。 携帯も変え、就職先は嘘を教え、離れた土地で一人暮らしを始めた。 家族、友人に協力してもらい、マリエに俺の居場所がわからないようにしてもらった。 マリエはただ一途だったんだ。 けれど、俺には荷が重すぎた。 マリエの事を大切にしてくれる人が、いつか現れることを祈るしかなかった。 それから約五年、実家にも帰らず、大学にもマリエの住む町に近づかなかった。 おかげで俺の前にマリエが現れることもなかった。 俺は仕事が忙しくなり、マリエのことは記憶の底に沈めた。 そして、俺は好美と出会い、結婚をして、子が生まれようとしている。 俺はすごく幸せだった。 そんな時に、マリエが死んだと知らされた。 マリエの死因は病死という噂だが、詳しくはわからないそうだ。 葬儀も密葬で済ませたらしく、家族以外に参列した者もいないらしい。 友人は、俺が幸せ絶頂の中で知らせるべきか悩んだようだが、マリエは大学を卒業してもずっと俺のことを探していたらしく、何度も何度も連絡先を聞いてきたという。 それはマリエが死ぬ半年ほど前までずっと。 あまりにマリエが不憫で、せめて亡くなった事だけでも伝えてやりたかったと友人は言った。 俺は友人に礼を言い、電話を切った。 そして迷っていた。 マリエの墓に線香をあげに行くべきかを。 あの時言えなかった言葉を、そこで伝えるべきかどうか。 迷った挙句、妻に相談した。 マリエの事を包み隠さず話し、俺はどうするべきかと。 妻は、気になっているなら行った方がいいと、マリエが眠る墓まで付き添ってくれることになった。 そして数日後、大学の四年間一人暮らしをしていた町に戻って来た。 マリエとのことがなければ、もしかしたら今でも住んでいたかもしれない。 とても住みやすい町だった。 俺は妻と駅を降りると、あの頃はなかった駅前の花屋で仏花を買い、タクシーで寺に向かった。 寺の場所は、友人が教えてくれた。 駅から30分ほど車を走らせた高台の上。 町が一望できる場所に寺の本堂はあり、そこから階段を上った先に墓地があった。 長旅で疲れていた妻を本堂の近くにあったベンチで休ませると、俺は花と線香を持って階段を上った。 階段の先には、細い砂利道を挟んでいくつもの墓が並んで建っていた。 墓石の大きさは様々で、俺は藤巻家と彫られた墓を探し歩いた。 いくつかの墓前には花が飾られ、中には線香の煙が揺らめいているところもあった。 大半が綺麗に掃除されていて、参拝者を待ち焦がれているようだった。 中には枯葉や苔で汚れ、墓石に彫られた名前もわからぬほど放置されているものもあった。 周りを見渡せど、参拝に来ているのは俺だけのようだった。 そして、藤巻家の墓を見つけた。 側面を見るとマリエの名前と享年が書かれ、墓前にはまだ美しい花が供えられていた。 きっと家族が供えたのだろう。 線香はすでに燃え尽きていた。 俺は持っていた線香と花を供えると、手を合わせて目を閉じた。 あの時、マリエに言えなかったことを、今なら伝えられる。 ーすまなかった。お前を愛してやれなくて。 マリエから逃げるように去った俺。 だから、謝ることもできなかった。 本当にすまない。 俺は心から謝った。 ふと暖かな風が吹き抜けた。 許されたような気がした。 俺は目を開け、マリエに別れを告げた。 『やっと見つけた』 俺の背後でマリエの声がした。 全身に鳥肌が立ち、咄嗟に振り返ったがそこには誰もいない。 ただ墓石が並んでいるだけ。 気のせいだとわかっていても、その声は耳にこびりついた。 嫌な予感がした俺は早々に妻が待つ本堂まで戻った。 妻は俺の顔を見て怪訝な顔をした。 「大丈夫? 何かあった?」 「だ、大丈夫。帰ろう」 俺はかなり動揺していたが、妻はそれ以上詮索してはこなかった。 あの声はきっと、罪悪感から聞こえた幻聴だ。 そうに違いない。 妻には心配かけたくない。 今は、これからもっと幸せになるための大事な時期。 マリエのことは早く忘れよう。 そう思っていた。 だが、あの声を聞いてからというもの、誰もいない背後から足音が聞こえ、誰かの気配を感じるようになった。 夜、ベッドで横になっていると、墓前で聞こえたマリエの声が頭の中を巡った。 俺の精神はどんどん追い込まれていった。 マリエの墓なんかに行かなければよかった。 行くことを勧めた妻をも恨みそうになった。 そんな中、妻がついに我が子を出産する時が来た。 陣痛が始まり、急いでかかりつけの産婦人科にタクシーで向かった。 苦しむ妻の手を握り、俺はただただ声をかけながら見守った。 出産に立ち会うことは、妊娠がわかった時から決めていたこと。 握った俺の手を、妻は強く握り返す。 それは力強くて、時々痛くて顔が歪んだ。 それでも俺は手を離さなかった。 妻はずっと悲鳴をあげながらも、分娩台の上で頑張っていた。 そして数時間後、医師と助産婦の歓喜の声とともに娘が生まれた。 娘の元気な産声が聞こえ、俺も妻も安堵した。 助産婦が生まれたての娘を真っ白なタオルで包み込むと、そのまま俺の方に近づいてきた。 「元気な女の子が生まれましたよ」 そう言って、娘の体をこちらに傾けた。 妻の手を握り続けていた俺の足腰は限界を越えていたが、愛しい娘の顔が拝めると思うと疲れが吹っ飛んだ。 俺は、そっと娘の顔を覗き込んだ。 「ああ、鼻が俺に似ている」 自分に似ている娘を見て幸せを感じていた。 すると、娘の閉じていた目がゆっくりと開き、俺の方を見た。 もう目を開けるのかと驚いていると、娘はニッコリと微笑んだ。 その時、娘の口元に小さなホクロがあることに気が付いた。 まるでマリエのようだ。 俺はそれを見て鳥肌が立った。 助産婦は俺から離れると、今度は母親になった妻の隣に娘を寝かせた。 妻は涙を流しながら、眠っている我が子を優しく撫でた。 考えすぎだ。 そう思い、俺は妻を労った。 あれから数年が経った。 成長する娘は、周りから俺によく似ていると言われる。 それは素直に嬉しい。 妻は、目元が私に似ていると浮かれている。 確かにそうだと俺も思う。 だが、ふとした瞬間に娘がマリエの顔に見えてならない。 それは決まって娘が俺を見て微笑んでいる時。 そんなことはあるはずもないのに。 娘は今日も、パパから目を離さない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!