喘鳴

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喘鳴

 ヒュー、ヒュー。  喉の奥から頼りない悲鳴のような異音が漏れる。見えないホコリやダニ、その死骸や糞が舞い、それを吸い込んだ気道が狭窄しているのだ。とんだ失敗だ。このところ調子がよかったから薬を服用していなかったのだ。夜のベッドで男と絡むなんてぜんそく持ちには無謀な行為だった。  腹上で彼が尽き果て、脇に寝転がる。私は素っ裸のままトイレに駆け込み激しく咳き込んだ。便座に腰かけ前傾姿勢で呼吸を整える。なぜか頭の中では嵐や関ジャニやキンプリの曲がメドレーのように流れている。吸い込んで、吐き出す。ただそれだけの行為が重労働のように感じられる。10分か、20分か、こんな状態でいたずらに時間が過ぎた。時刻はまだ0時前のはずだ。終電には間に合うかもしれない。  喘鳴(ぜんめい)は心持ち小さくなってきた。もっともそれは発作が治まってきたからではなく体力を消耗した結果にすぎない。  とにかく帰んなきゃ……。常用のパルミコートと非常用のメプチンエアーは自宅にある。私は腰を上げると、さきほど洗濯籠に脱いだ服を身に着けた。部屋に戻ると彼はすっかり寝息を立てている。ここは彼の部屋。社員寮として借り上げられた家具・家電付きアパートだ。彼は大手ゼネコンの社員。年下だが社会的地位は申し分ない。それだけに自分は軽く扱われたのかと悲しくなる。  玄関に立つ。靴箱の上に何通もの封書や葉書が重ねられている。この部屋に来た時点で気にはなっていた。単身世帯に届く郵便なんてたかが知れている。私の場合、せいぜいカードの利用明細、ドラッグストアやコンタクトレンズのDM、加えてあまり他人には見られたくないファンクラブの通知くらいである。いけないこととは知りつつも、私はそれに手を伸ばす。一般的な白や茶色の封書・葉書だけでなく、黄色や赤のそれが混じっているのが不穏な感じがする。未開封の封書の中には『至急』と印字されているものもある。弁護士委任通知ってなんだ?  ブームは過ぎ去ったが、彼が仮想通貨に嵌っているという話なら聞いたことがある。  帰宅し薬で発作を鎮めると、彼にメールした。 地下鉄工事の件、誠にありがとうございました。またご一緒にお仕事させていただく機会もあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いいたします。 私的にお会いするのは今回限りにしたいと思います。 たいへんお世話になりました。  彼にしてみれば、私なんて取引先の年増女にすぎないだろう。興味本位で手を出しただけで未練はないはずだ。未練があるのは私のほう。彼とゆくゆくは結婚し家庭を築く妄想までしていた。彼の部屋を訪れるまでは。  真紀は高校時代の友人だ。90年代後半、ギャル全盛期。ミニスカにルーズソックスというスタイルが女子高生の定番となる。もっとも進学校においてはこの限りではなく、女子の大半は黒髪、膝丈スカート、普通の白ソックスであり、私もその一人だった。そんな中にあってギャル系の彼女は目立っていた。教師受けは悪いが、男女双方から人気があり、一方で彼女はクラスの中心からはやや離れたポジションにいたため地味めな私でも気さくに話しかけることができた。私たちの共通項は『アイドル』だ。大人になっても共にコンサートへ足を運ぶ。新潟や札幌にだって遠征する。そんな仲が30を過ぎても続いていた。  ただし彼女の男癖の悪さには閉口した。数か月か、ひどいときは数日で連れの男子が替わる。高2のころには校内のハンサムな男子(イケメンという言い方を当時はしなかった)はすべて食い尽くしたと噂されたほどだ。その性向は大人になっても変わらず、はたちくらいでさっさと結婚するギャルの一般的なイメージに反し、いつまで経っても彼女が身を固めることはなかった。要は理想が高すぎるのである。  ある日曜の午後、そんな彼女と二俣川のジョイナスでばったり出くわした。彼女は1人だったが、こっちは例のゼネコンの彼と一緒だった。折しもデート中。真紀の容貌は茶髪が黒髪に変わった点を除き、10代のころとほとんど変わっていない。艶のある肌に、二つ結びが似合いそうな童顔。真紀は微笑みながら嘗めるように彼を見つめ、一方の彼は「恭子さんの……友人です」と照れた様子で自己紹介し、名刺を差し出した。  それから、私が彼に別れを告げてわずか数日後、真紀からラインが来た。付き合うことになったよ、と。  あ、そうなんだ……。と私はアパートの自室で独りわびしくつぶやいた。きっと彼も名刺を差し出した時点でその気があったのだろう。  おめでと~ がんばってね と笑顔のスタンプを添えて私は返した。  彼、意外におなか出てるし毛深いよ。  それとね、相当借金あるみたい。  そういったことは黙っていた。
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