Round About

1/1
前へ
/1ページ
次へ

Round About

 掠れた横断歩道を生温いヘッドライトが照らしている。その光を遮りながら行き交う人の像が、それぞれの目的地へ消えて行く。車も人も、交わり合うことのない環状交差点は孤独の音に軋んでいた。メッセージを訴える端末の震えが、バッグの革と淡色のコート、雨に冷えた肌を通して臓腑へ響く。液晶画面に浮かぶ言葉は何であれ、意味のないものに変わりはない。肺の中身を押し出すように溜息を吐けば、環道へ向かうタイヤが泥水を纏いながらゆっくりと速度を落としてゆくのが見えた。振動が回数を増やす。新しい寄る辺を見つけた今や、電話口の彼は不要だった。等間隔に打ち付ける駄々も、少し歩いていれば止むだろう。  環道を横目で眺めれば、いつも通り時計回りに進行する車と、導流部へ抜けてゆく車、三面鏡のような横断歩道を急ぐ人影が目に映った。その中心、ゴミ捨て場と化した中央島は、道徳の脆さを誇るように汚れている。  恋愛の似絵のようだと思った。そして、それが人生の導である自分も。堂々巡りに巡って、汚くなってゆく。自由の国に似せられたビルの大時計が高架に隠れて見えない。仕方なしに端末を取り出し、ついでにメッセージに目を通した。  久しぶり、元気にしてる?  君からもらったプレゼント、すごく役に立ってるよ  着いたよ、ロビーで待ってるね  君の忘れ物が出てきたんだけど、どうする?  明日用事があって、近くで同僚に拾ってもらうんだけど、一緒に泊まる?  希望職種への転職ができそうなんだ  不要なものを親指で消していき、ついでにその源泉となる肖像を削除する。賞味期限の過ぎた食品と同じで、置いておいたところで言葉も思い出も黴が生えるだけだった。難しく考えなければ捨てるべきだと分かるのに、女の子たちはどうして迷ってしまうのだろう。  着いたよ、ロビーで待ってるね  明日用事があって、近くで同僚に拾ってもらうんだけど、一緒に泊まる?  これあなたのじゃない?忘れてるよ  片づけられた画面に浮かぶメッセージにバッグに添えていた腕を上げた。華奢なチェーンのブレスレットが、端末の中で光っている。左手首の実物は画像に吸い込まれたように無くなっていた。六年前の入学祝に自分に贈ったブレスレット。鎖に繋がれた四つの爪で留められた石は、小さいながらも深い群青色で好きだった。キリマンジャロの夕暮れの空の色なんだと謳っている品質保証書は、何処にやってしまったっけ。同僚にお礼を、新しい彼に被った猫を送ると、糸のようだった雨が粒になって降り出した。肖り者とは言わなくても、もっと良い状態で生きていければいいのに、と叩く内面を押し込むと、スカートの裾を怠惰に翻した。  取り戻したブレスレットの群青色の宝石は、変わりなく深く透き通っている。綺麗な青ね、というのが正解なのだ。キリマンジャロの夕暮れ色、そういったものがしがらみだと気が付いてから途端に生きやすくなった。  再会した環状交差点は、雨林のような霧に霞んでいた。車にも人にも乳白色の靄がかかり、摩天楼の紫がその奥をぼうっと照らしている。雨粒の光る袖を振ると、乳白色の只中を反対のヘッドライトが照らした。強い光が創りだした影絵のひとつがまっすぐに靴先から胸部へ駆けあがり、留まる。影の元を見ると、環る道路の中心に浅黒い踵が落ちていた。  外国人だ、とやけに冷えた脳が訴えた。日本人にはない、使い込んだ鞣革のような肌。きっとそこが道路だと気付いていないのだ、誰か教えてあげればいいのに。茫洋と見つめていると、不意にその人が振り向いた。光の届かない森か、岩窟から現れたように野生的で、非常に粗野な仕草だった。柔らかく輪郭へ落ちた黒髪の下で、アーモンド形の目が竦んだ心を見抜くように細められる。翳された睫の下、大きな瞳の中で赤紫の閃光が瞬いた。通り過ぎる車窓の誰かに突然飛びかかりでもしそうな、凶暴な光。  その光に打ちのめされる前に、乳白色が漂う人ごみへ紛れ込んだ。普段は無防備に開けているバックの口を手で押さえ、ヒールが滑るのに任せて歩幅を広くする。アスファルトの何処からか滲み出てくる泥が足首に跳ね、疫病のような跡をつけた。  恨みがあるような目だった。それでいて口元は三日月に歪んでいた。なぜあんな目で見られなくてはいけないのだ。職業も、年齢も、何の後ろめたさもない人を、陥れるような目で見るのか。恐怖が過ぎた胸に怒りがわいてくる。苛立ちに任せて腕を振り上げ、タクシーを呼ぶ。移動のための数千円を惜しむような歳ではないのだ、と乾いたルージュの唇を結んだ。  飴色の照明のなかで、細いグラスが光っている。歪な氷が浮かぶ琥珀色を傾ける彼は二十八歳の私立高校教員だった。黒帯を持っているらしく、耳が畳に沿うように潰れていた。 「物書きになりたかったの?」  夢想的でしょ?と笑うと、彼は骨太の指で湿気に膨れた髪を掻きまわした。 「今の君が好きだよ」  こんな暗喩めいた景色が通勤路なんて複雑ね、と零したら、事故が起こらないといいね、と返ってきた。その答えに少し安心した。  バスタブは綺麗に磨かれていたが水圧が弱かった。撫でるようにしか落ちない雫に苛立ちながら浴室を出ると、漆黒だった空は滲んだ青に変わっていた。洗われすぎて柔らかさを無くしたタオルに、無機質な匂い。男の形に膨らむシーツは見知らぬ蛾の蛹のようで、とても体を入れる気にはなれなかった。消し切らなかったシェードライトの下で、ブレスレットが淡く輝いている。つまみを回して明かりを消すと、細いチェーンをすくいあげた。 「おまえは全部見てきたのね」  机に張り付く夜も、怠惰に付け込まれる瞬間も。  長い付き合いだった。今までの彼の誰よりも。燻らせるように傾けた爪の中で、赤紫の何かがちかりと輝いた。耳鳴りがするほど凪いでいた心に冷たい風が流れ込む。台座を両手で掴み、もう一度石をまわす。きらきらと無害に煌めく群青色の中で、赤紫の閃光が凶暴に、粗野に瞬いた。心臓が喉元にせり上がったように喉が熱い。沸騰するような息を吐くと、中央島に伸びる裸足が、脳裏の裏側から急加速で飛び出した。静寂なホテルの部屋に色濃い霧が立ち込め渦を巻く。  やりたいことがあった。でも成しえなかった。恋愛は良かった。始まればみんなに持ち上げられ、最中は嫌なことを忘れられ、終わった後は甘い自己憐憫に浸れた。  濃度を増した霧が、不思議な質量を持って背中を押した。その外へ、在るべき場所へ、あの色が、光が導いてくれている。そんな予感が夕立のように胸を黒く濡らしていった。  午前五時の都心部。日の出の気配と高層ビルに追い立てられながら、帳の向こうへかかとを鳴らす。冷たいままの髪が跳ね、羽織ったコートが十二月の針先のような空気を孕んで暴れた。体の奥に、岩漿と氷山が同時に在るようだった。その熱も、冷たさも、あっという間に気化して夜明け前の空気に溶けてゆく。  モニター画面の広告が、掠れた白線の浮く国道が、後ろへ遠ざかって消えた。飛び込んだその空間は真空のような静けさに覆われていた。歩道にかけた脚が綱渡りの最中のように震え、きりきりと痛む。  待ち合わせをしていたように、その人は立っていた。うっすら腐乱の匂いを孕むビル風が濡れたままの髪を揺する。導かれるように爪先が白線に乗ると、その人は悠々と向き直り、まっすぐに背を伸ばした。 「ねえ、あなたは」  環状交差点の中心を浅黒い裸足が踏みしめる。その動きが波となって身体を、臓腑を打ちのめして揺さぶった。 「わたしの、」  ざあああ、と鈍い音に声が飲み込まれてゆく。身を乗り出すと、その人は静かに口角を持ち上げた。路上に白い光が伸びる。突然の異彩に驚いて元を辿ると、強い光がふたつ見えた。  浮かび上がる、廻る、落ちる。  空が見えた。彼の目には似つかない、寂びた青色だった。  環るばかりの路から外れた身体に橙の光が点滅する。濡れた髪が地面で波打ち、投げ出された四肢が真っ白に浮かぶ。  メッキの鎖に繋がれていても、わたしは美しかっただろう?  通り抜ける風に四つの爪がきらきらと鳴る。それはひとつずつ形を失くし、響きだけが青い宙に木霊した。  どんなにつまらない男の首に回されていても、お前の細い手首は美しかったのに。  背中からゆっくりと青紫に浸ってゆく女に、街が騒ぎ出すまで同じ色を注ぎ続けた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加