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そういうわけで、我が家のダイニングテーブルに4人――正確には3人と1羽が座した。
一体全体どういう経緯でここに招かれざる客がいるのか、私はまず説明を求めることにした。
男――臼井壮登は、さっきから無遠慮に私の隣の文左衛門さんを凝視している。
「ペンギンだよな?」
「文左衛門さんです」
「そういう名前? なんで飼ってんの? どっかで拾ったの?」
質問は一度に一つにして欲しい。
「……事情があって。それより、えっと、臼井、さん? はどうして私のメールアドレスや携帯の番号を知ってたんですか?」
「まーくんでいいよ」
そっちがよくてもこっちはよくない。
聞こえなかったふりをして、もう一度同じ質問をした。
「香織のケータイに登録されてたの見た」
「誰ですか香織って」
「荒巻香織」
「だから誰――ん?」
どこかで聞いたような気がする。
「荒巻香織……って、え、まさか」
「会社一緒なんだろ?」
「え、あの、荒巻さん?」
「そーそー」
臼井壮登は、遠慮なく菓子入れから取ったどら焼きを頬ばっている。
「オレ、こしあんの方が好きなんだよねー」
そんなことは訊いていない。
「荒巻さんとは、一体どういうご関係で?」
「同棲してた」
「はい?!」
「一緒に暮らしてた。こないだまで」
「てことは、例の元彼?」
「例の? 香織、オレのこと話してんの?」
「えっと、まあ、その、少し」
もしかして、あの裏切りのサーカスの男はこいつなのか。
そういえば、その後どうなったのか荒巻さんの口からは語られていない。
「こないだまで、ということは、今は一緒じゃないんですね」
「まあなー。でも元彼ってわけじゃないし」
「は?」
「別に別れてない。オレ、誰も切らねーもん」
臼井壮登は、正面から見たカカポのような顔でそう答えた。
口の端に粒あんの豆の皮がついていた。
――これはやべーのが来た。
さすがの私も、メリーさんとは方向性の違う得体の知れなさを感じた。
つまり、私が荒巻さんの同僚であることを何かの拍子に知り、荒巻さんの携帯を見て連絡をしてきたのか。
「荒巻さんに直接聞いたんじゃなくて、勝手に見たんですか?」
「勝手にってなんか悪いことしてるみたいじゃん。たまたまそこにあったからさ。それに、昔の知り合いだからってほかの女の子に連絡したいとか彼女には言いづらいじゃん? やっぱ」
こだわるところが違うような気がするのだが、あまりにも当然のように話すのでおかしいのは私の感覚なのか、混乱してきた。
斜め前の父はというと、デューク東郷のような顔になっていた。
それに気づいているのかいないのか、臼井壮登は父の方を向くと、
「で、今晩泊めてもらっていいすよね?」
「断る」
私と父が見事な二重唱になるのは、36年生きていて初めてかもしれなかった。
「えっなんでダメなんすか」
「なんでって、むしろなぜなんだ……」
「や、だって行くとこないんすよ。風呂も入りたいし」
この男の「で」と「だって」の脈絡が意味不明すぎて、頭痛がしてきた。
「壮登くん、君ね、考えてもごらんよ。お客さんを泊めるにはそれなりの準備が必要だろう? いきなり言われてもね」
「大丈夫です。オレ気にしないんで」
「いや、そういうことじゃなくてね……」
「まあまあ、お父さんはそういうご意見てことすよね? 理恵はどう?」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」
典型的なセリフまで飛び出してきた。
そしてもちろん私にも理恵と呼ばれる筋合いはない。
「あの、うち、部屋は余ってなくて」
「そのへんの床でいいよ。廊下でも」
「そういうわけにも……」
とにかく今日は帰ってもらいたい、という意思表示を貫こうとする私と父。
それに対して、どこから攻めてくるのかさっぱりわからないロジックの奇襲攻撃を繰り出す臼井氏。
噛み合わない押し問答の最中、不意に、隣に座っていた文左衛門さんが椅子から降りた。
そして、首を垂れてあの不思議な鳴き声を短く出すと、
「痛っ、いたたた! 痛いって!」
臼井氏への実力行使に及んだ。
要するに、また嘴で臼井氏を突き回したのだ。
「文左衛門さん!」
制止の呼びかけではない。
ナイスタイミング! の意だ。
歌舞伎の大向こうと同じだ。
「おやおや、どうやらうちのペンギンは知らない人が苦手なようだ。皇帝ペンギンは大きいだけに力も強いからね、フリッパーで全力で叩かれると人間は骨折することもあるんだ。これじゃ泊めてあげられないなあ。いやあ、残念だね」
お父様、顔が笑ってます。
それはともかく、臼井氏は不本意そうな「マジすかぁ」という嘆息とともに、ようやく腰を上げた。
「オレ、動物には嫌われんのかなあ。つーか、オスだからかな」
なかなかに論点のずれた疑問に首を捻り、「うーん、こりゃ最悪ネカフェっすかねえ」と露骨に憐れっぽい表情でこちらに視線を寄越すが、私と父は「換羽が終わったね」「綺麗になりましたよね。やはり皇帝の風格が」「ここは尾脂腺と言ってね」「ほうほう」と文左衛門さんを囲んでいた。
もちろんわざとだ。
諦めたらしい臼井氏は、「んじゃ理恵、また連絡するわ。お父さん、どーもお邪魔しました」と最低限の挨拶はして出ていった。
邪魔だという自覚はあったのか、と驚愕したが、慣用的に使っただけかもしれない。
どら焼きの包み紙が4枚、テーブルの上に残されていた。
「――どうするんでしょうね、今夜」
若干気が咎めて父の顔を仰ぐと、父は腕を組んで溜め息をついた。
「一文無しってわけでもないだろうし、男なんだからどうとでもなるだろう。もしかすると、あっけらかんとお前の同僚の彼女のところに戻ったりするかもな、あれは。しかし、あの『まーくん』がまさかあんなことになっているとは……」
30年は、人を変えるのに十分な時間なのだろう。
「なんで家に上げちゃったんですか」
「すまない。失敗だった」
肩を落とした父は、「人間ならいいってものでもなかったな……」と呟いた。
反省しているようなのでそれ以上責めるのはやめて、私は文左衛門さんにお礼を言った。
「ありがとうございました、文左衛門さん。助かりました」
文左衛門さんは黒い穏やかな瞳で私を見て、嘴を小刻みに上下させた。
満足そうに見えた。
このひとといると、違う世界にいるみたいだと私は思う。
焦点の合わないぼんやりした視界の水中から、水面上へと抜け出したような気分になる。これが、「特別」ということなのかもしれない。
よし、デートにお誘いしよう。
老師、やりますよ私。
そう決意した私の心象風景は、五老峰の星空だ。
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