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それから3週間ほど経ち、日々の仕事や雑事に追われて結婚の話などすっかり忘れた私は、カーディガンの毛玉を取るのに一番適しているのはハサミなのか専用の毛玉取り器なのかはたまた裏技的に台所用スポンジなのかで悩んだ結果、全部を順番に試してみていた。
その夜、帰宅した父には、意外な同伴者がいた。
「お帰りな、さい……?」
玄関に出た私は、父の隣にいるその人――いや、人ではないのだがお客様だし、その方、と呼ぼう――その方に目が釘付けになった。
父の鳩尾ぐらいまでは身長があるかという、大柄なペンギンが、黒に鴇色の入った嘴を小刻みに上下させながらそこに立っていた。
「お、おと、お父様、こ、この方は、もしやっ――」
興奮のあまり吃ってしまった。
「……紹介するから、お茶を淹れてくれないか」
「えっ、お茶でいいんですか? この方」
「いや、お父さんとお前の分だ」
「では、この方には何を……?」
「とりあえず氷で」
「は、はい。――あの、氷でいいですか?」
おそるおそる尋ねてみたが、特に肯定的な(ジョークではない)反応はなかった。
緊張されているのだろうか。あるいは、庶民とはあまり接触したことがないのかもしれない。
何しろ皇帝だし。
私は興奮を抑えきれず、湯呑みに直接茶葉を入れたり冷蔵庫を開けて急須を探したりという愚を犯しながら、その訪問者をちらちら盗み見した。
確かに皇帝ペンギンだ。
本物だ。
あのときは、父の追求を逃れるために苦し紛れというか、とにかく何か答えなければという気持ちが57%くらいで言ったのだが、まさか本当に本物の皇帝ペンギンに会えるとは。
私は、俄然テンションが上がってきた。
適当な発言で父を煙に巻いておこうと思ったことを、わりと反省した。真に受けてくれてありがとう、お父様。
緑茶と氷の入った器を盆に載せてキッチンカウンターから出、ダイニングテーブルに並んで座る父と来客の前にそれらを置いた。
父は一口茶を啜ってから、「さて」と口を開いた。
「紹介するが、こちらは、見てのとおり皇帝ペンギンの――61番」
来客が慎重に嘴で氷をつつくのを凝視していた私は、はっと顔を上げた。
「ろくじゅういちばん?」
「そう呼ばれてた。うちの水族館では」
父は、水族館に勤務している。
数年前に定年で退職したが、現在も非常勤で仕事を続けている。
かなり子供のころには父の職場を訪れたこともあるが、お年頃を迎えて以降は気恥ずかしさが勝って、行っていない。
「ジャン=バルジャンみたいですね。ほかのペンギンも?」
「そう。番号と、フリッパーバンドの色で識別してる」
言われてみれば、61番氏の右腕(羽?)の付け根には黄色と赤のラバーバンドがつけられていた。
「名前をつける水族館もあるのに」
「うん、まあ……それぞれの館に方針があるからな」
「そうなんですか」
61番氏は、嘴を開いて氷の欠片を飲み込んだ。イチゴシロップなどをかけたかき氷の方が、おもてなし的にはよかったかもしれない。
「で、今日からうちで預かることになったから」
「ハイ゛?!」
「で」の突拍子のなさに、交尾中のカケスのような声を上げてしまった。
「え、う、うちで?」
「ああ」
父は、また一口ゆっくりとお茶を啜った。
「実は、彼は完全人工育雛で成長したんだけどね」
「いくすう?」
「孵化してからずっと人の手で育てたってことだ」
「あ、なるほど」
「適齢期になっても、雌のペンギンにまったく興味を示さなくて、繁殖行動が見られない。どうも人間を親だと思ってしまったらしくて。そのせいか、ほかの皇帝ペンギン達から攻撃される、というか……まあ、人間で言うところの、虐められるようになったというか……とにかく、一緒にしておけないと」
父は、カラヴァッジョ風の陰影の濃い顔つきになった。
「そんな、酷い」
たぶん私の顔も似たり寄ったりの表情になっていただろう。
大自然の掟とか本能とかいうものは、そういうものなのかもしれないけれど。
当の61番氏は、飄々とした様子で氷をつつき回している。大人だ。
「ほかの水族館に預けることはしないんですか?」
「うん……今はどこも手一杯でね。かなり特殊なケースにはなるが、お前も皇帝ペンギンは好きだと言っていたし、いろいろ……そんなこんなでうちで引き受けることになったんだ。とにかく、よろしく頼むよ」
「もちろんです」
そんな事情があるならなおさら、我が家で安心した暮らしをしてもらいたい。。
ただ、名前は61番のままでいいのだろうか。
そんなレ=ミゼラブルな響きのままでは、何だか気の毒ではと思う。
「なら理恵、何か名前を考えたら」
「私が? あの、それでいいですか?」
61番氏に問いかけると、しばらく私の方を無言で見つめ、それからゆっくりと頭を垂れて、くぐもった声でくえ、と鳴いた。
「いいそうだ」
「わかるんですか?!」
「否定か肯定かくらいは」
「皇帝ペンギンだけに」
「いや、そうじゃないが……そんなことより名前はどうする?」
「ええと……」
威厳があって、でもジェントルで、この方にふさわしい名前でなければならない。
南極出身の皇帝だから、やはり横文字がいいだろうか。ナポレオンとか。
いや、人物のイメージに少々問題がある。
「ペンなんとか」では安易すぎて失礼だ。
私の脳裏に、いくつもの文字が浮かんでは消えていく。
そして、不意に閃いた。
「文左衛門さん」
威厳がある。そして、裕福そうだ。
「文左衛門さん、というのはどうですか?」
61番氏は無言で私を見つめ――ているかどうか今ひとつわかりづらいのだが――微かに嘴をはね上げるようなしぐさをした。
これは、どっちなのだろう?
イエスなのか、ノーなのか。
「たぶん了解してるよ」
「本当ですか?」
「もう一度呼んでみたらいい」
「はい。――文左衛門さん?」
彼はやはり何も言わないけれど、じっとこちらに顔を向けている。
嫌がっている感じでは、ない、と思う。
「じゃあ、文左衛門さん、今日からよろしくお願いします」
頭を下げると、彼も、頷くような動作をした。
こうして私、清水理恵36歳は、文左衛門さん5歳と親公認の同居をすることになったのだった。
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