ep2 近づく心の距離、的なアレ

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「ただいま」 鍵を開けて玄関に入ると、父はまだ帰っていないようで靴がなかったのだが、かすかに奥の方から水の音がした。 蛇口を閉めるのを忘れてしまったのだろうか、とキッチンへ行くと流し台は何ともなかったので、お風呂場へ向かった。 案の定、シャワーの音がする。 しまった、朝入ってから出しっぱなしだった? と思い、ドアを開けると―― 「きゃっ!」 文左衛門さんが、頭から冷たいシャワーを浴びていた。 「ご、ごめんなさい!」 慌ててドアを閉める。 意外と風圧の抵抗で素早くは閉められないという気づきを得たが、それはともかく大変失礼なことをしてしまった。 文左衛門さんは怒っただろうか。 せめてものお詫びにとバスタオルを用意して、脱衣カゴに入れておいた。 家族以外と同居する場合、こういうハプニングに気をつけなければいけなかったのだ。 反省しつつ着替えをして夕飯の支度をしようとキッチンに戻ると、まだ文左衛門さんの姿はなかった。 水音は止んでいるのでもう上がったのだとは思うけれど、念のため私は脱衣所のドアをノックした。 「あの、バスタオル、置いておきましたから」 返事はなかったが、ゆっくりとドアが開いた。 そして、バスタオルを体に巻いた、というか、バスタオルに巻かれているというか、そういう状態の濡れた文左衛門さんが佇んでいた。 これは、自分では拭けない、ということだろうか。 「えと、お手伝いしましょうか?」 文左衛門さんはタオルの乗った頭を下げ、一歩、私に近づいた。 許可をいただいた、と判断して、私は羽毛を傷つけないようにとタオルを動かした。 何しろ皇帝ペンギンを拭いたことがないので粗相があってはいけないと思い、手が緊張で震えてしまって、「あの、痛くないですか? 痛かったら言って下さいね」と何度か確認した。 しかし文左衛門さんはじっと不動のままいて、だいたい乾いたかなという頃合いに「これくらいでどうでしょう?」と訊くと、ふるふるっと自分で全身の羽を震わせておしまいにした。 皇帝ペンギンは穏やかな性格なんだよ、と父が言っていたとおり、文左衛門さんはほとんど鳴き声を出すこともなく、優しい。 その父が帰ってきて、たいてい3人――2人と1羽で夕飯を食べることになっている。 文左衛門さんは、主に生のイワシとアジだ。 たまに、イカのお刺身も食べる。 「水族館ではニシンやホッケが好物だったな」 父はそう教えてくれたが、家計やら旬の時期やらの関係で、なかなか生のそれらは手に入らない。 恐縮なことだ。 文左衛門さんが嘴を開けて頭から魚を飲み込むときに、トゲトゲの口の中が垣間見え、私はギャップ萌えという言葉の意味が理解できた。 いつも温和で寡黙なひとの、隠された野性味に触れてしまった、とでもいうか。 夜は、文左衛門さんだけリビングで寝ている。 父曰く、嘴を脇に挟んで立ったまま眠ることが多いそうで、浅い眠りを何度も繰り返すということだった。 確かに、夜中にリビングに行くと文左衛門さんがじっと窓際に立っていることがあった。そのタキシードに似た背中は上品ながら物憂げで、生まれ故郷の南極を懐かしんでいるのだろうか、と思うとちょっと切なかった。 が、よく考えたら人工育雛だと父は言っていたので、水族館生まれということになる。 「文左衛門さんは、南極じゃなくて水族館で生まれたんですか?」 父に尋ねたところ、なぜか目を泳がせて「あー……うん、まあ、そうだな」と言葉を濁した。 「なんで微妙なんです返事が」 「ええと……あのな、皇帝ペンギンはいろいろ難しいんだ。南極条約とかあってだな」 面倒な話になりそうだったので、私はそれ以上訊くのをやめた。 いずれにせよ、文左衛門さんは本来生きている場所から遠くへ来てしまったひと、エトランゼなのだ。
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