ep2 近づく心の距離、的なアレ

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翌日、天気予報を見る時間がなくて傘を持たずに出勤したら、最寄りの駅に着いたときにはかなりの土砂降りになってしまっていた。 自宅までは歩いて15分くらいだが、傘なしではずぶ濡れになりそうだし、駅構内の店でビニール傘を買えばいいかと思ったら、既に売り切れていた。 一番近いコンビニには、まだあるかもしれない。 数分は濡れるのを覚悟しないといけないか、と思っていると、電話が鳴った。 父からだ。 「もしもし?」 『今どこだ?』 「お父様、ちょうどいいところに。今、駅なんですけど」 『傘持って行かなかったろう? 届けに行くからそこで待ってなさい』 「ありがとうございます」 今日は父の方が帰りが早かったようで、ラッキーだ。 駅前広場が見えるところで雨宿りをしながら待った。 辛気くさいのに激しい拍手のような、雨の音が続く。 道路のあちこちに水溜まりができて、車が派手に飛沫を立てて走っていく。 7、8分くらい待ったころ、広場から伸びる商店街の向こうから、小規模な水飛沫を散らして黒っぽいものがやってくるのが見えた。 ――何だろう、あれ。 初めはあまり気に留めなかったが、だんだんそれが近づいてくるにつれ、まさか、いや、でもあれは、と目が釘付けになった。 水を掻きわけるようにして滑ってくるそれは――いや、そのひとは。 「文左衛門さん?!」 思わず声に出してしまった。 背中に私の傘をくくりつけた文左衛門さんが、トボガン滑りでやってくる。 なお、トボガン滑りとは、腹這いになって雪や氷床の上を移動するアレだ。 駆け出したいが、この降りではそうもできない。 時間が時間なのであまり人通りはないが、たまにすれ違う人はほとんど例外なく二度見する。 それはそうだろう。 街中を皇帝ペンギンが滑っていたら、大ニュースだ。 SNSでさらされたり、ワイドショーで取り上げられたりしたらどうしよう。 そんな私の心配をよそに、文左衛門さんは優雅に駅前広場を滑走して到着した。 間近で見ると結構早いトボガン滑り。 いや、感心している場合ではない。 「あの、わざわざどうもありがとうございます! すみません、こんな、お手数をおかけして」 文左衛門さんの背から傘を外し、ゆっくり立ち上がったびしょ濡れの姿を眺める。 泳ぎの得意な皇帝ペンギンとはいえ、こんな大雨の中を、私のために来てくれるなんて。オフホワイトのおなかは、すっかり泥で汚れてしまっていた。 「文左衛門さん……」 なんだろう、この気持ちは。 切ないような、嬉しいような。 「ねえ、あれ……」 「ペンギン……?」 「嘘、着ぐるみでしょ……?」 背後でひそひそと囁き合う声が聞こえ、私は我に返った。 「は、早く帰りましょう!」 そういうわけで、帰りもトボガンスタイルの文左衛門さんと早歩きの私は、なんとか無事に家に着いた。 文左衛門さんがお風呂に入っている間に、私は父を問い詰めた。 「お父様、いくらひどい雨が嫌だからって、文左衛門さんにお願いするなんていかがなものでしょうか。立場的にはお客様なわけですし」 これも、実際にはもう少しラフな言い方をしている。 すると父は、首と両手を逆方向に振った。 「いやいや、お父さんが行こうと思ったんだよ勿論。ところが、支度をして玄関に出たらもう既にあの子がお前の傘を咥えて、ドアから出ようとしていたんだ。それで『理恵を迎えに行ってくれるのかい?』って訊いたら、そうだって意思表示をするから」 「本当ですか?」 「本当だよ。さすがに駅がどこかわからないだろうと思って、私が行くよと言ったんだけど、首を振ってトコトコ出ていこうとするから、それならせめて傘は背中に紐でくくりつけておいた方がいいかなと思ってね。皇帝ペンギンはGPS受信機能があるのかというくらい方向感覚がいいから、そういうこともできるのかもしれない。で、あの子が出ていった後に、お前から電話が来たというわけ」 私の胸に、あの切なさと嬉しさのまじった感情がまた湧いた。 文左衛門さんは寡黙でマイペースで多くを語らない。 しかし、私が思っていたよりもずっと、いろいろなことを承知しているのだろう。 彼にとって私はただのお世話係だと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。 仲間意識、あるいは身内意識のようなものを、感じてくれているだろうか。 心臓がどきどきしてきた。 焦燥感にも、少し似ている。 もしかしてこれが、ときめきというものだろうか。 ゲームや漫画のタイトルに使われているアレだ。 『源氏物語』に出てくる「時めく」と関係があるかどうかは、諸説あるそうだ。 そこへ、カチャと音がしてダイニングのドアが開き、ずぶ濡れの、しかしおなかの汚れは綺麗に落ちた文左衛門さんがやはりバスタオルに巻きつかれて所在なげに立っていた。 「あっ、タオル! タオルですね!」 私は慌てて駆け寄った。 頭を垂れてじっとしている文左衛門さんをタオルドライしながら、なんだか幸せだなあ、と思った。
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