ep1 突然の同居はラブコメの王道

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ep1 突然の同居はラブコメの王道

「お前もそろそろ嫁に行ったらどうだ」 古式ゆかしい父親の決まり文句を、実際に自分の父親から聞くのはなかなかの衝撃だった。 しかも、食卓で新聞を読む手を止めて、というところまでテンプレどおりだ。 私はといえば、どうも最近下腹が出てきた気がするので、ネットで検索した効果的な呼吸法――腹部を引っ込めてそのままキープするというもの――を試しながら、テレビでカニかまを作る工場のドキュメンタリー番組を見ていた。 巨大な消しゴムにも見える魚のすり身の塊を機械で切り、そこにカニのエキスや脂、身を混ぜる。 なるほど、見てくれ以外のカニ要素がゼロというわけではないのだ。 厚さ1ミリに延ばされ、幅1ミリに切り込みが入れられ、食紅で色をつけると、どう見てもカニの身だ。 素晴らしい。 さらに、ほぐし身タイプとスティックタイプでは製造工程に違いがあって――とここまでを大変興味深く見ていたところで、冒頭の台詞だ。 「ほへっ?」 意表を突かれすぎて、浣腸をされたワライカワセミのような声が出てしまった。丹田に意識を集中していたのに、急に脱力したためだ。 「あの、お父様、それはどのような意味でしょうか?」 実際にはこんなことは言っていない。 現実の私の口調はもう少しラフというか粗野というか、まあ、あまり文字に起こすのがふさわしくないと思われるものだったので、適宜穏当な表現に書き改めている。 「どういうもなにも、そのままだ。お前、もう37だろう」 「36です」 「あっそう」 「昔の偉い人の口癖だったそうで」 「古い流行語を知ってるな」 「昭和の女なので」 「そうだな。お前の友達ももうほとんど結婚して子供もいる年代だ」 「そうですね。未婚の友達も多少はおりますけれども」 「最近は昔より結婚が遅くなっているとはいっても、やっぱりそろそろ、しておいた方がいいんじゃないか? 一生結婚しないわけにはいかないだろう?」 「しないわけにはいかない、の理由がちょっとわかりかねますが、それは、『結婚をしない者は人間として失格であるから』という意味で合っていますか?」 「いや、そういうことじゃない。お父さんが死んだら、お前、一人になってしまうじゃないか。それは心配だよ、親としては」 そうやって親心を持ち出されると、異議は申し立てづらい。 もっとも、異議というほど確固たる反論があるのではなくて、単純に―― 「お父様、ご存じかとは思いますが、結婚というものは一人ではできない所業ですよね? 筋トレや映画鑑賞とは違いまして」 「当たり前だろう。お前、今付き合ってる人はいるのか?」 「それを訊きますかあ」 日曜の午後に自宅で腹をへこませながらカニかまメイキング番組を見ている人間に、愚問だ。 「いないのか……」 「むしろなぜいると思ったのかが理解しがたいです」 「こんな呑気な娘に育ててしまって、春子(はるこ)さんに申し訳ない」 「お母様のことを持ち出すのは反則ではないでしょうか」 母は、私が小さいころに亡くなった。父は――これまた古式ゆかしい言い方だが――男手一つで私を育てた。 それに対する感謝の念は、ないわけではないけれども、そのことで罪悪感を煽ってくる手法は少し狡いのではないか。 特にこういう、人生の行き先に関わる事項においては。 私の顔が曇ったのを見て、父はため息をつき、老眼鏡を外した。 「お前が、なんとしても結婚したくない、死んでも嫌だ、というのなら父さんもあまり強くは言えないが、どうなんだ、そのへんは」 「いえ、死んでもとかそこまでは思っていませんけれど、特に必要性を感じていないと申しますか、端的に縁がないと申しますか」 「職場に男もいるだろう?」 「いますけど、いるだけです。信楽焼の狸と同じです」 「前、仲よくしていた子がいなかったか? まーくんだったかな」 「とっくに音信不通です」 「……本当に縁がないのか」 完全に憐れなものを見る目だった。 しかし、ないものはない。 日常生活圏には見当たらず、遠隔地まで赴くのは面倒くさく、まあいいかーとりあえずコンビニに新発売のお菓子買いに行こー、という感じで日々を過ごしてきた。 「じゃあ、縁があればしてもいいと、そう思ってはいるんだな?」 「ええ、まあ……」 父は「そうか」と頷き、「どんな男が好みなんだ?」と尋ねてきた。 これは困った。 「どんな、とは」 「性格とか、見た目とかだ」 難しい質問だ。 人の性格に対して、好みとか好みでないとか考えたことがない。その人は勝手にその性格になっているのだからして。 外見にしても、人間なんて内部はみんな同じような体の構造だし、太っているとか痩せているとか多少の違いはあっても、それぞれの健康の事情があるというだけで、こちらが好きだの嫌いだの判定するようなものでもない。 しかし、あえて希望を述べるとすれば、できれば前科はない、もしくは少ない方がいいかな、とは思う。百犯とかだと怖いから。 「犯罪歴はない方がいいです」 「それは好みとは言わない」 「あ、そうですか」 「……特に希望はないんだな」 「ないと言い切ってしまうとどんな魑魅魍魎でもいいみたいな話になってしまうので、それはちょっと喜ばしくないと申しますか」 「なんだ、魑魅魍魎って。たとえば三高がいいとか、あるだろう?」 「日大の」 「違う」 もちろん承知していた。ふざけてみただけだ。時間稼ぎだ。 「では、お母様は、お父様となぜ結婚したのでしょうか? お父様と結婚しようと思ったのはなぜか、ということですけれど」 「え? なぜって、そりゃお前……」 言いかけて、父は考え込んでしまった。 「なぜだろうなあ、そういえばはっきりと聞いたことはないなあ。まあ、やっぱり好きだったから、じゃないかなあ。そういえば初めて2人でデートに行ったのは紅葉の綺麗な季節で――」 60代男性が一人回想モードに入ったので、私はこっそりリビングを離れようとし、そこでなんとはなしにテレビの画面に視線を向けて、あっと思った。 「こういう男性がいいです」 「え、なんだって?」 我に返った父は、きょときょとした。 私は、画面を指さした。 「こういう男性と結婚したいです」 「……こういう? って、お前――」 そこには、もっふりとした皇帝ペンギンが映っていた。 「ペンギンじゃないか」 「ペンギンですね」 オフホワイトのつるんぽよんとした福々しいお腹に、タキシードに似た上品な銀青の羽毛、落ち着いた思慮深そうな黒い瞳、というか顔。壮大な南極の薄青い氷山と、どこまでも続くような黄昏の空を背景に佇み、遥か遠くを見つめている、詩人か哲学者のような姿。 いいな、と思った。とても素敵だ。 心惹かれる。 「ああいう男性が好きです」 父は、画面を見たまま固まってしまった。 『苦悩』という題名でムンクにでも筆を執ってもらったら傑作になりそうな顔をしていた。 その隙に、私はリビングを逃げ出した、 夕飯は、カニかまとキャベツの炒飯がいいかな、と思った。
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