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キッチンで母さんを出迎えるのは、朝の私の仕事。
「おはよー」
寝ぼけた声がダイニングにのんびりと流れる。寝間着のまま声の主がすり足で動いてる。寝ぼけ声に応じる声は普通に出た。安心する。
「朝食、用意してあるから。それとお弁当も横にあるから忘れないでね」
朝食といっても、サラダとトーストがあるだけ。昨晩の夕飯を考慮すると申し訳なくなる。
「ごめんね、トーストだけで」
「いいよー。じゅうぶんだよ。ありがとー」
目をしぱしぱしながら、母さんがテーブルにつく。猫背のままもそもそと動きながら朝食を口に押し込んでいく。朝の母さんは、かわいい。
「あー」
急に間延びした声を出した母さんの背筋が急に伸びてくる。手に持っていたトーストを一度皿に置いて、口いっぱいのサラダをしばらく黙々と飲み込んでいた。
ごくりと喉を鳴らして、気付けのように頬を叩く。
「おはよ。目、覚めた?」
尋ねると、母さんが恥ずかしそうに目をそらす。それから私を見て、疑問を口にした。
「ご飯食べないの?」
「食べるよ。今準備してる所」
母さんが返事を聞いて、食事に戻るのを見て目を瞑る。コップに水を入れて口をすすいだ。
「どうしたの? 風邪?」
「うん。ちょっと」
「大変じゃないの。悪くなる前に休んだ方がいいんじゃない。病院行った方が--」
「大丈夫!」
自分でも驚くくらいに大きな声を出していた。
「……大丈夫だから」
「そう。ごめんなさい、余計なことを言ったわ」
言葉を継いだら、母さんが静かにそう答えてトーストの最後の一切れを口に運ぶ。
「お皿、置いておいて。まとめて洗うから」
先んじて言うと、母さんから「わかってる」と頷きが返ってきた。
母さんが席を立つ。ここから会社に行く準備を整えるまでに二十分かからないのだから、驚きだ。おまけに身だしなみまで完璧に整える。隙のないキャリアウーマンがたった二十分で完成してしまう。
そんなことを考えながら見ていた母さんが部屋から出ていかずに、なぜかキッチンへ足を向ける。手にはマグカップだけ。
「どうしたの?」
「牛乳、飲みたくて」
「あー、牛乳ね。言ってくれれば持ってくのに」
近づいてきた母さんが、キッチンにある冷蔵庫の前まで来る。手を伸ばせば届くような距離。
「いたれりつくせりね」
冷蔵庫から牛乳を取り出して、母さんがカップに注いでいく。
「何? ジロジロ見て」
居心地悪そうに母さんが身動ぎする。その様子が普段と変わらなくて、それが嬉しい。
母さんがカップをキッチン台の端に置く。
「今日は学校を休みなさい」
優しい目が私を見た。
「ごめんなさい」
手の届く距離だった。謝罪を口にした母さんの手が、私の髪をそっと撫でる。
「私も会社は休むわ。病院に行きましょう」
「ちょっと、母さん。何を急に。会社、そんな急に休めないでしょ」
もごもごと口を開かずに母さんを咎める。
「急じゃないわ。職場には話を通してあるから。こういう日があるかもしれないって」
私の両頬を母さんの手が包む。小さく母さんの鼻が動いた。すぐに匂いを嗅いだのだと気づいた。思わず口を引き結ぶ。
「痛い?」
「痛い、けど。それより口の中が気持ち悪い」
「いつから?」
「今朝から。こんなに急になるなんて、思ってなかった」
人それぞれだというのは知っている。調べた通りだった。それでも昨日今日でこんな状態になるなんて思っていなかった。最初は小さな口内炎程度で、それが徐々に広がっていく、そういう話がネットでは多かったから。
「苦労させて、ごめんね」
首を横に振る。苦労なんてしていない。むしろ大変なのは母さんの方だ。
「もっと気にかけるべきだったよね」
首を横に振る。十分に気にかけてもらっていた。ずっと私のことを見てくれていた。
「寂しい思いをしたよね」
首を横に振る。まったく寂しくなかったとは言えない。でも母さんがいつも居てくれた。毎日が嬉しくて、楽しい。
「お父さんに会いたいよね」
首を横に振る。不倫をして家を出ていった人だ。事情はあったのかもしれない。父さんのことは今でも嫌いにはなれない。でも会いたいとは思わない。それよりも母さんと一緒に居たい。
「言えなかったことを言いなさい」
母さんがそっと私を抱いてくれる。
「父さんの、居た頃の話を、したくなかった」
母さんの胸の中で、私は小さく言葉を零す。
「父さんが居ないこと。母さんを責めるみたいで、嫌だった。辛いのは母さんなのに」
声がかすれた。母さんの手が背中を擦って、優しく頭をなでてくれる。
「昨日、母さんが父さんの椅子にエプロンをかけて、ああ、そこ父さんの椅子だったねって、そのことも口には出したくなかった」
しゃくりあげて声が途切れがちになる。
「家では、言えなかった。万が一にも母さんに聞かれたくなかった。昨日友達に少し話した。間違いだった。言うべきじゃなかった。あの娘には刺激的な話のネタでしかなかった」
「ごめんね。たくさんの言葉を飲み込んできたよね。辛かったね」
私はひときわ強く抱きしめられて、それから母さんの体が離れていく。
「娘に守ってもらってばかりの、ダメなお母さんだ」
そんなことない。でも、私と同じように母さんの首が横に振られる。
「お母さんのお願い聞いてくれる?」
母さんが赤らんだ目で、まっすぐに私を見た。
「言えなかったこと、お母さんには話してほしい。ちゃんと聞くから。あなたの思いをないがしろになんて絶対にしないから。私のために言わない、その心配も全部受け止めるから。言葉を飲み込んで行き場がなくなってしまう前に、お母さんに話してほしい」
喉が震えて、声は出なかった。私は何度も頷く。
母さんは私をもう一度抱きしめてくれた。
落ち着いた頃に、私はそっと母さんから離れる。
「ありがとう、母さん」
笑えたと思う。でも、母さんの作っている微笑みと同じくらいに不出来だという自覚もある。
「母さんに、言ってないことがあるの」
「何かしら?」
「ホットミルクに砂糖入れすぎ」
母さんが虚を突かれた顔をして、くすくすと小さく肩を揺らして笑う。
「そうだったの。勉強で頭を使うから糖分が必要だと思って」
「深夜の飲み物じゃなかった」
「確かにそうね。夜の糖分には次から気を使うわ」
笑ったことを謝りながら、母さんがもう一度やわらかく微笑んだ。
今度もまた、私は母さんと同じ笑みを浮かべていたと思う。
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