言えなかった言葉

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言えなかった言葉

「ただいま」  夜の十時を回った頃、私は家の玄関をくぐった。手袋を外して、痛いくらいに冷えた頬に手を当てる。同じ自分の体なのに別な物のよう。お互いに温度を分け合う感じを楽しみながら、冷たいのが手だったのか頬だったのか忘れかけた頃にダイニングのドアが開いた。 「お帰りなさい。ご飯用意しておくから、済ませてきなさい」  エプロンをつけた母さんが、頬を両手で抑えている私を不思議そうに見ながら促す。 「んー、ありがと」  手袋を肘と体で挟んで持って、脱いだローファーの向きを直して家に上がる。ダイニングの入り口で立ったままの母さんが手を差し出してくれるので、脱いだコートと手袋を預ける。そのまま私は洗面所へ。  帰ったら必ず洗面所で汚れを落とす。家の決まり。  だからまず手を濯いで、それからコップに一杯の水をいれる。  鏡に映る私を見る。背は低い方。スカートは洗面台に隠れて映らなかった。  学校指定のブレザーの上に乗ってる顔は、思った通りの陰鬱さを漂わせている。理由はわかってる。この後のことをやりたくないから。でも、やらない訳にはいかない。可能性があるだけとはいえ、何が起こるのかを想像すると背筋に寒気を感じる。  二十数年前にひとつの病気が流行った。  細胞変異型壊死性口内炎。  患部が膿み、ただれ、腐る。喉や口の周りから始まって、それは全身に広がっていく。命に関わる重要な器官にも移り、死亡率や後遺症の発生率が非常に高い。そんな病気が十代から二十代前半の若者の間で流行った。若者の病気。そんな認識とともに世界に広がった。  今も病気の原因は判明してない。偉い学者さんたちの調査だと、体を構成する細胞が変化して症状の原因を作ってしまうので、細胞が変化する原因を取り除けない限り、対症療法しか取る手段はないらしい。医学で根本的な解決をするにはまだまだ時間が必要だって言われてる。  この病気が発見されてから、年間の罹患数と死者数は右肩上がりに増加していった。  だけど、ひとつの対策が世に広まって状況は変わった。  罹患数の増加は年々緩やかになり、年間の死者数は下降を続けて、その割合は年を追うごとに大きくなった。  そんな風に、医療系の動画やテレビ番組で解説されていたのをよく覚えている。  原因不明の病気にカウンターを食らわせた対策。  私は今日もそれを実践する。  鏡からは目を逸らした。今の自分の顔は見たくない。洗面台に手を突いて、中を覗き込む。 「鼻毛が出てるの、いい加減直してほしい。すごい気になる」  先生がホームルームでお説教している時、ずっと気になっていた。席が最前列なせいで、目に留まる。 「愛花。中谷くんと付き合えたの、良かったね。おめでとう」  沙知絵が居たから、面と向かってあの場では言えなかった。 「でも愛花も言う場面はもう少し考えてほしかった」  事情に疎いわけじゃない。わざとあの場で言ったのは分かる。 「というか、受験を目前にしたこの時期によくやるよね」  この時期に彼氏作ってどうするんだろうか。それどころじゃないと思うんだけど。 「模試の結果で差が出たのは、優子が勉強してなかったからでしょ」  今日帰ってきた模試の結果を勝手に覗き込んで、勝手に嘆かないでほしい。 「それから--」  言葉が詰まった。深呼吸する。 「愛花。あなたに話すんじゃなかった。私が間違いだった」  全部伝えられない私も悪かった。共感がほしかった訳じゃなくて、話を聞いてほしかった。私が勝手に話しただけ。それで憤慨するのだから、身勝手な話だ。 「それでも愛花が玩具みたいに、この話題に触れるのが許せなかった」  私は間違えた。  飲み込んだ言葉を吐き出し、捨てる。良い事も悪い事も全部言う。悪いことだけ言えばいいって話もあるけど私は全部言う。言えないからこそ飲み込んだ言葉なのに、どうして吐き出す必要があるんだろう。言いたい言葉を包み隠さず言えれば、こんなことしなくていいのに。  用意しておいた水を一気にあおって、乱暴に口をすすぐ。別に吐き出した言葉に悪いものが付いているから洗い流すって訳じゃない。飲み込んだ言葉を捨てるのは、うがいの後だっていい。気分の問題。  こんなことを私は物心ついた頃からずっとやってる。違う、私だけじゃない。今はどこの家でも当然のように習慣化してる。  一時期は致死率100%を誇った大病に対する、世界中で実績を認められた予防法、治療法はオカルトじみたものだった。  言えずに飲み込んだ言葉を吐き出す--それだけ。  病は飲み込んだ言葉が内で腐るのが原因だっていう、怪しい俗説。SNSでそんな話が広まって、みんなが藁にもすがる思いでそれを実践したら元気になった。乱暴に言えばそんな話。  確証を得るため、反証のため、偉い学者さん達がこぞってたくさんの実験をして、残ったのは有効性を示す結果ばかり。とくに相手に傷を負わせる自覚のある言葉が原因になるって結果がいくつも報告されたせいで、日本では悪語症なんて呼ばれることがある。いわゆる放送禁止用語。そんな呼び方のせいもあって、この病気にかかった人にはレッテルが貼られる。あの人は腹に一物抱えてるからそんな病気になる。みんなだってその一物をひと目に触れない所で吐き出しているくせに、そんな人達から嫌な目で見られるようになる。 「それは、嫌だな」  最後に小さく言葉を吐き捨てる。タオルで口元を拭って洗面所を後にした。  ダイニングに戻ると、母さんが夕食の準備を整えてくれていた。  テーブルの上にはご飯と、形の悪いハンバーグを盛り付けた皿がひとつ。彩りや見栄えを整えて盛り付けられた生野菜がメインディッシュの不格好さを際立たせる。でも、手持ちでベストを尽くそうとする所が母さんらしい。 「お疲れ様。受験まで追い込みの時期だものね。お腹すいたでしょう」  エプロンを畳んで父さんの椅子の背もたれにかけてから、母さんが私の前に座る。 「お疲れなのは母さんの方でしょ。ご飯、ありがと。いただきます」  手を合わせてから、ハンバーグに箸を伸ばす。 「ねえ、遅い食事はあまり良くないと思うの」  肉汁と一緒にほぐれるいい塩梅のひき肉に頬を緩ませていると、母さんがぽつりと言った。 「夜の分、お弁当を作ったほうが良いかしら。外で食べてくるのでもいいけれど」 「確かに夜遅いご飯は気になるけど、できれば家で食べたい。ダメかな?」  伺うように母さんを見る。ふっと表情が和らぐのを見た気がする。 「そう--そうね。じゃあ、そうしましょう」 「ありがと。あ、それから、今日模試の結果帰ってきてさ」  今日あったことをお互いに話す。いつもと変わらない夕食の時間を過ごして、食事を終えた。ブレザーを脱いでシャツの袖をまくっていると、お皿を片したそうに母さんがこっちを見てた。 「なーに?」 「お皿は置いておいて。片しておくから」  思った通りの返事に笑ってしまった。 「何? 急に笑って」 「いや、不器用だなあと思って。一緒にやろ。洗うから、片して」  皿を重ねて流しに持っていくと、母さんが慌てて付いてくる。 「不器用って、随分なことを言う子になったわ」 「知らないの? そういう世代なんだよ。言いたいことは口にするように育てられたからね」 「そうだったわね」 「外だと思うまま言うのは憚られるけどね。空気は読むものだよ。でも家の中で誰に気を使うこともないでしょ」  そんな言葉を交わしながら、二人で肩を並べて洗い物をした。  夕食を終えたら部屋に籠もってひたすらに勉強。学生の本分で受験生の宿命。目を背けて逃げ出したい所だけど、今更逃げるというのは一番ナンセンスだと思う。原動力のひとつにはなっている気がする。補助動力程度だけど。  日付が変わった頃に母さんがホットミルクを作ってくれた。眠気が吹き飛ぶほど極甘な味付けにはびっくりしたけど、変わったことはそれくらい。何も問題はなく、すべて順調。  いやでも、あのホットミルクは問題かも。深夜に飲むには少し乙女向きじゃない気がする。明日、母さんにちゃんと言おう。  そんなことを考えながら、時計の短針が二時を指した頃に布団へ潜り込んだ。
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