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言えなかった言葉
「――奈央」
声を掛けられる。大好きな声。大好きな人。
「優希……」
振り向くと、そこでは優希が呆れたような表情を浮かべていた。
「何してるの、奈央。もう授業始まるよ」
「授業? ……ああ、そっか」
言われて、ようやくわたしは思い出す。
なぜ忘れていたのだろう。もうすぐ授業が始まる時間ではないか。
慌てて優希のところへと駆けていき、共に目の前の扉を開けた。
その向こうはいつもの教室だ。窓から差し込む夏の陽光が、教室の真ん中に置かれた2つの机に注いでいた。
(……2つ?)
「ほら。早く座るよ」
そう言って優希はさっさと着席した。わたしは少しだけ妙な違和感を抱いたが、また後ろから掛けられた声で違和感は霧散してしまった。
「そうよ。早く座りなさい。奈央さん」
「わっ!? 先生!」
そこにはいつもの優しい笑みを浮かべた先生が立っていた。
現国の授業を受け持つ先生。同性のわたしから見ても美人なその容貌で、教師の中でも生徒の、特に男子生徒からの人気は高い。
かといって女子生徒から煙たがられている訳でもなく、いつでも真面目で真摯に対応してくれる先生は、みんなの憧れだった。
「ほら、奈央。先生も困ってるよ」
「むぅ……」
わたしは少しだけむくれながら、言われるままに着席する。それと同時に優希から疑問の声が上がる。
「何をそんなにむくれてるのさ……」
「べっつにー? 真面目な優希君は、美人な先生の肩を持つんだなーって」
「何をくだらない……」
そう言って優希はため息を吐いた。
自分でもくだらないとは思う。だが、それを他人に、優希に指摘されては心穏やかではいられなかった。
「あんたが――」
「僕が好きなのは奈央なんだから。先生が美人なのは関係ないよ」
「――――」
思考が硬直する。
数秒経ってから何を言われたのかを理解し、急速に頬が熱くなっていくのを感じた。
「ちょ……優希、何を……」
「……? 何って、事実だけど」
その言い分に閉口する。優希は昔からそうだ。唐突で優しく天然で、いつもわたしは振り回される。
どう返したものかと考えあぐねていると、教卓からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「ふふふ……。奈央さん、優希くん。仲が良いのは大変結構だけれど、授業中はこっちに集中してね」
「はーい」
「……はい」
わたしは恥ずかしさの余り俯きながら答えた。
そうだ、これは恥ずかしいだけだ。頬を染めるのは羞恥のそれだ。決して、嬉しい訳じゃない。口元のにやけが抑えられなくとも、これは嬉しい訳ではないのだ。
「はい。では授業を始めます。えーと、前回はどこまでいったかしら……そうそう、明治時代の始まりのところね。さて、明治と言えば明治維新が真っ先に思い浮かぶかしら。歴史的には――」
教壇に立つ先生の話を片耳で聞きながら、隣の優希を睨みつける。
優希は授業に集中したかったようだが、ようやく視線に気づき、こっちを向いた。
(なに?)
そう小声で問いかけてくる。だがわたしは答えず、つんとそっぽ向く。
呆れられただろうか。素直じゃないのは自分でも承知だし、面倒なのも承知だ。
だけれども、察して欲しい乙女心も、素直になれない恋心も、全然全く思い通りにならないのだから仕方がない。
そんな自分に内心で辟易していると、そっと手に暖かいものが触れる。
(機嫌直してよ。お詫びにひとつ、お願い聞くからさ)
そう言いながら優希はわたしの手に自分のそれを重ねた。
熱でもあるのだろうかというほどに自分の手が熱くなる。いくら素直になれなくとも、正直な自分の身体には敵わなかった。
諦めたようにため息を一つ零し、その手を握り返す。
(……今日一日、ずっとわたしの相手して)
(了解。お姫様)
そう言って優希はわたしの手を引き、甲に口を付けた。
……流石に、許容量オーバーだった。
「~~~~ッ!! あんたのそういうところがっ……そういうところがぁっ!!」
「お、落ち着いて奈央……!」
授業中にも関わらず暴れるわたしたちを見て、先生がまたくすくすと笑みを零す。だが威圧するように教鞭をピシピシと弾く姿は妙に怖い。
「「ご……ごめんなさい」」
わたしと優希はほほを引き攣らせ、再び席に着いた。
「はい、じゃあ奈央さん。ジョンの言葉を英文に直してみて?」
「は、はい。えと……――」
いざ答えようとした途端、聞きなれたチャイムが授業の終わりを示した。
「あら、終わりね。じゃあ奈央さん。答えは宿題ね。次回の授業で答えてもらうわよ」
「はーい」
猶予を与えられて安堵し、思わず声が弾んでしまった。
それによってか先生は教室を去るまでくすくすと笑みを零していた。
「おつかれさま。奈央」
「うぅ……英語苦手ぇ……」
そう言って机に突っ伏す。そうすると優希は優しく頭を撫でてくれた。
授業中、終始優希とこんなことばかりしていた気がする。正直、何の授業を受けたのかもう覚えていない。先生には少しばかり申し訳ない。
「さて、授業も終わったし、どうしようか」
優希がそう言ったことで、先の約束を思い出す。そう、今日はずっと優希と一緒に居て良いのだ。
「……じゃあ……デートしたい」
言って、優希をまっすぐ見つめる。
優希は一瞬驚いた表情を浮かべたが、直ぐにいつもの優しい表情に戻った。
「喜んで。じゃあ行こう」
「――うん」
優希はわたしの手を取って歩き出す。
少し引っ張られる形になりながらわたしは頷く。今のは割と素直だったのではないだろうか。ただ頷いただけだけれど。
わたしは胸を躍らせながら、優希に次いで教室の戸をくぐった。
「さあ、どれに乗る?」
そこは遊園地だった。観覧車にメリーゴーランド、コーヒーカップと王道が目白押しだ。
わたしは視界の端に映る、グロテスクな絵の描かれた建物から極力目を逸らしながら考える。
「メリーゴーランドとかコーヒーカップは流石に子供っぽいしなぁ……」
「じゃあそこのお化け――」
「却下」
最後まで言わせなかった。悪戯好きな優希が真っ先にそれを提案してくるのは解かっていた。
わたしの反応を察していたように、優希は肩を竦ませながらわざとらしくため息を吐く。
「今日はお願いを聞くって言ったし、仕方ない。今度来た時は連れていくからね?」
「……また連れてきてくれるの?」
優希の方を見る。優希はぽりぽりと頬を掻きながら照れたように頬を染める。優希のそんな姿はなかなか珍しい。
我ながら単純だが、機嫌を良くしてしまったわたしは優希の左腕に抱き着いた。
「約束だからね」
「お化け屋敷もね」
「う……頑張る」
その手の代物は正直苦手だが、ここで下手に渋ってチャンスを不意にするのも悪手だろう。一旦はその提案の飲むのも致し方なし、と受け入れる。
当日にその約束を守るかは別として。
「それじゃあ観覧車?」
「だめ、それは最後」
「我儘だなぁ……」
そう文句を言いながら優希は周囲を見渡す。
そして名案でも思い付いたようにそれを指示した。
「よし、じゃあジェットコースターだ!」
「え、やだ怖い」
「また我儘を……ほら、大丈夫だからおいで」
そう言って優希が手を差し出すと、思わずその手を取ってしまった。
そのままジェットコースターまで連れていかれる。他の客はおらず、並ぶことなくジェットコースターの乗り物の前まで来てしまった。
いざコースターに乗り込もうというところで、足が震える。
「怖い?」
「さ、さっきからそう言ってるじゃない……」
もはや誤魔化す余裕もなくそう言うと、優希はわたしの手をぎゅっと握り締めた。
「ずっと手を繋いでおくから」
「ぁぅ……」
ぼっ、と頬が熱くなるのが解る。
動揺とか、怖さとか、嬉しさとか。いろんな感情に翻弄されるわたしをどう思ったのか、優希が追い打ちのように問いかけてくる。
「まだ足りない? ……奈央、他に欲しいのはある?」
そう言って心配そうにわたしを覗きこんでくる。……近い。
顔がとても近い。超近い。べらぼうに近い。心臓麻痺させる気だろうか。
ただでさえ混乱していたところに追い打ちをかけられ、いよいよ冷静でいられなくなる。
だからだろう。思っていたこと、ずっと願っていたことが口から漏れてしまったのは。
「――優希が欲しい……」
……
…………?
いま、わたしなんて言った?
「――ッ!!?」
今度こそ頬が真っ赤に染まる。自分では見えないが、解る。解ってしまう。
だってこんなにも、心臓が煩いから。
「……っ」
次に何を言うべきか。何を口にすべきか。
そんなことをぐるぐると悩み、いろんな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
そんなわたしの心境など知らないかのように、優希はわたしと繋いだ手を、今度は両手で包み込んだ。
「…………なに、してんの?」
「うん? 言われた通り、勇気をあげてる。……どう?」
なにを言っているのだろう?
どう? と首を傾げられてもなんて答えればいいのか。
勇気なんて貰えるものでもないし、そもそもわたしが言ったのはそういう事でもないし。
……けど
「――ぷっ……」
……けれど確かに、胸には温かい何かが宿った。
「ぷくくく……あっはははっ!」
ぱちくり? それともきょとん? 或いは両方?
突然笑い出したわたしに、優希はどう表現していいか解らないような表情を浮かべていた。
「奈央?」
「ふふ……ううん、なんでもない。ありがとね」
そう言って首を振り、優希の手を引いてその場を後にする。
「ジェットコースターはもういいよ。それより観覧車行こ?」
「えぇ……さっきはまだって言ったのに……」
「もういいの」
そう、もういい、大丈夫。“最後に”だなんて逃げていたけれど、決心はついた。
だって、勇気を貰ったから。
「……奈央?」
観覧車を前にして立ち止まる。振り返り、優希をまっすぐに見据える。
「――好き」
言葉が溢れ出す。本当は観覧車に乗って、良い雰囲気になったところで言おうと思っていたのに。
「……大好き」
止まらなかった。観覧車に乗るまでも待てず、ただ言葉を紡ぐ。
ずっと言いたかった言葉。ずっと、言えなかった言葉。
それは止めることの出来ない激流となって溢れ出す。
「わたしは優希が好き! ずっと好きだった!」
「――僕も、ずっと前から好きだったよ」
ぶつけるようなわたしの告白を、優希はまるで慣れたもののように、当たり前のように受け止める。受け止めてくれる。
「……ふふ」
「あはは……」
2人して笑い合う。答えはいらない。そもそも四六時中一緒に居るのだ。答えはお互い解っている。
「行こっか」
「うん」
答えを口に出すこともなく、優希は観覧車に向けて歩き出す。
わたしはそのまま優希に手を引かれ、観覧車へと乗り込む。その瞬間、視界が真っ白な光に満たされた。
「――奈央。……奈央、起きなよ奈央」
「――ん……」
目蓋の向こうから貫いてくる光に、思考が少し覚醒する。
そのまま促されるように身体を起こし、目を開けた。
「おはよう、奈央」
ベッドの横でカーテンを開ける優希が声を掛けてくる。
わたしは鈍る頭で何とか挨拶を返した。
「……おはよう」
その返事で納得したのか、優希は満足げに頷いた。
「おはよう。朝ごはん出来てるよ」
そう言って踵を返し、優希は部屋を出る、その直前
「――優希」
わたしは思わず呼び止めた。
「……なに?」
優希が振り向き、不思議そうに首を傾げる。
わたしは一つ深呼吸した後、首を横に振った。
「――ごめん、なんでもない。すぐに行くよ、優希お兄ちゃん」
「ああ、待ってるよ」
そう言って優希は今度こそ部屋を後にした。
ばたん、と扉の閉まる音を確かに聞き届けた後、脱力してベッドに倒れこむ。
「あー、夢かー。……夢かぁぁー……はあぁぁぁ……」
なんて夢を見ているんだという恥ずかしさやらなんやらが胸を締め付け、押し出された空気がため息となって吐き出された。
ひとしきり吐き出した後、熱くなった頬をつねる。目は覚めなかった。
現実はこんなものだ。わたしと優希お兄ちゃんとの間には何もなく、かといって一歩を踏み出す勇気もない。
「はぁ……――」
勇気が欲しい。血の繋がりだのなんだのを飛び越えて、想いを伝える、そんな勇気が。
あの時言った……言えなかった言葉を言える。そんな勇気が。
「……でも、言えたんだよね? 夢の中だけど……。――そっか」
なぜだろう。すとん、と心が落ち着いた。
そう、今まで言えなかった言葉。言えない言葉なんかじゃあ、決してない。
「勇気は……貰ったしね」
右手を胸に当てる。何故だかその胸はとても温かい……気がした。
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