テンポ

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 君香が店の外に出ると、すかさず拓人が君香の上に傘を差してくれた。彼の手に他の傘は無く、傘は一つだけだった。 「ごめん。約束破ったのは俺なのに、追い返すなんて。しかも、雨降ってるのに」  拓人は追いかけてきてくれた。言い過ぎた君香に、謝ってくれた。そのことに決意が揺れてしまわぬよう、君香は心を引き締めた。そして、口にした。 「ねぇ、わたし達」 「約束に遅れたの、シフト変わったからってだけじゃなかったんだ。バイト終わった後、入荷したって連絡入ってて、買いに行ってたら余計に遅くなった」  またしても、君香の言葉の続きの邪魔をした拓人は、ダウンジャケットのポケットから、小さな箱を取り出した。  婚約指輪が入っているようなベルベットの…そんな、立派な箱では無かった。それよりずっと簡素な、白い紙の箱だった。  箱を見つめるばかりで受け取ろうとしない君香にしびれを切らした拓人は、傘を持った方の手が使えずもたつきながらも自ら箱を開けると、君香に「手、出して」と言ってきた。君香はうっかり、右手を出した。拓人は気にせず、その薬指に指輪を嵌めた。雪の結晶がモチーフの、ファッションリングだった。 「これ取りに行くより、急いで帰った方がいいかも、とも思ったんだけど、冬っぽいデザインだし、寒い時期の内に渡したくて」  君香はまじまじと指輪を確認した。そのデザインは確か、去年の年末、ショッピングモールを拓人と君香の二人でうろついていた最中、アクセサリーを扱う店で見かけたものだった。  緑の石のと、青い石のと、赤い石のとの指輪がショーケースに並べられていた。でも、雪の結晶なのだから透明の石の指輪が欲しくて、店員に尋ねたところ、ラインアップにはあるが、いまは品切れということだった。  デートの途中で本気の買い物をすることもないだろう。気になりはしたが、それをそこまで顔には出さず、だが本音ではそれなりに惹かれた指輪が、今、ややチープな佇まいではあるが、コンビニ店内の青白い照明を反射し、君香の薬指で輝いていた。  なんとも中途半端だ、と君香は思った。これがそれなりに豪勢な指輪であったら、決心を忘れて歓喜するか、もしくは、二人はもう無理だからときっぱり別れを切り出せたかの、どちらかだっただろう。  対して、このファッションリング。値段的には大したことはない。でも、強く態度に出しはしなくても本音では気になっていた物をしっかり憶え、取り寄せて、買ってくれた。欲しい欲しいと言わなくても、分っててくれた。  心を入れ替え、これから一生、彼と添い遂げよう。そんな気持ちにはさらさらならなかったが、「別れよう」の言葉を引っ込めさせられるのに、その指輪は十分過ぎた。
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