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<番外編> 2 九条琢磨
月曜の朝―
「おはようございます…」
大きなガラス窓に囲まれ、さんさんと日の差す広々としたオフィスに元気の無い様子の琢磨が社長室に入って来た。
「おはよう、九条。どうした…。まるで ≪屠所の羊(としょのひつじ)≫のようじゃないか?」
社長室のカウンターに乗っているコーヒーマシンでモーニングコーヒーを淹れていた二階堂が驚いたような顔で琢磨に言う。
「は…?何ですか?それ…」
琢磨はげんなりした様子で顔を上げた。
「何だよ、九条。お前はこのことわざを知らないのか?≪屠所の羊≫って言うのはな、屠殺場に連れて行かれる羊の事だ。つまり、不幸にあって気力をなくしていることのたとえ話だ」
二階堂は淹れたてのコーヒーを飲みながら得意げに言う。
「それ位のことわざ知ってますよ。何ですか?社長・・俺がまるでその状態だと言いたいんですか?」
琢磨は自分のデスクにカバンを置くと、ドスンと力なく椅子に座る。
「ああ。まるでこの世の終わりって感じの顔をしている。あ…そうだ!いい考えがあるっ!俺の2歳になる愛娘の写真を見せてやろう。元気が出て来るぞぉ~」
二階堂は嬉しそうに言い、背広のポケットからスマホを取り出し…。
「いいですよ。どうして先輩の娘を見て俺が元気が出て来るんですか?いや、今はむしろ他人の幸せを呪いたい気分ですよ」
琢磨は頭を抱えてため息をつく。
「ん?おい、九条。今何だか聞き捨てならない言葉を聞いたぞ?なんだ?他人の幸せを呪いたい気分って…。何かあったのか?」
言いながら、二階堂は琢磨の分のコーヒーを淹れている。
「ほら、二階堂特製淹れたてコーヒーだ。飲めよ。」
そして琢磨に差し出した。
「ありがとうございます…」
琢磨は手を伸ばしてコーヒーを受け取ると再び深いため息をついた。
「なぁ…一体何があったんだよ、お前がそこまで落ち込んだ姿はこの間の隠し子疑惑以来だから気になるんだよ」
「先輩・・・俺をまたからかって遊んでるんですね…?俺がどんな気持ちで今ここに来ているかも知らずに…」
「おいおい…どうしたんだよ本当に…。一体何が…」
その時、二階堂と琢磨のスマホに着信を知らせる音楽が鳴り響いた。
「ん…?俺とお前、同時に着信が入るなんて…」
二階堂は落ち込んでいる琢磨をチラリと見るとスマホをタップした。
「ん?おい、九条。各務修也からのメールだぞ?え~と、何々…。へえ…ついに各務さんが鳴海グループの社長に就任する事が決まったそうだぞ。え…?おめでたいじゃないか!結婚する事も決まったらしいな。相手は…え…?」
二階堂はメールを読むと、恐る恐る隣の席で激しく落ち込む琢磨を見た。
「う、嘘だろう…?」
二階堂は声を震わせて琢磨に声を掛けた。
「今朝、突然翔から電話が入ったんですよ…。偽装婚が会長にばれて昨日蓮君の親権を失ったそうです。そして朱莉さんと離婚が成立して、次期社長の座と朱莉さんを各務修也に奪われたって」
「はあっ?!な、何だ?!その話は!青天の霹靂じゃないか!」
「先輩っ!俺は真剣に落ち込んでるんですよ?むやみにことわざばかり使ってこないでください!」
琢磨はやけくそのように喚いた。
「あ、ああ…悪い。すまなかった」
流石に二階堂も悪ふざけしている場合ではないと思い、真顔で謝った。
「くそ…っ!お、俺は…朱莉さんに自分の気持ちを伝える事も出来ないまま失恋してしまったのか…?!」
琢磨は悔しそうに言うと、生ぬるくなったコーヒーを一気飲みした。
(朱莉さんには九条に内緒で朱莉さんに好意を寄せている事を伝えてしまっているが…この事は黙っていた方が良さそうだな…)
その様子を見ながら二階堂は思うのだった―。
午後5時―
その日は殆ど、まるで半分生気が抜けてしまったかのような状況で仕事を行なった琢磨のスマホにメッセージを知らせる着信が入って来た。
(全く誰だよ…)
琢磨は溜息をつきながらスマホを見て息を飲んだ。それは朱莉からのメッセージだったからだ。
(え…?あ、朱莉さん…?!)
琢磨は急いでスマホをタップするとメッセージを開いた。
『九条さん、2人きりで大切なお話があります。もしご都合がよろしければ今夜お会いする事出来ますか?お返事お待ちしております』
「朱莉さん…」
そのメッセージはまるで死刑宣告を受けているように琢磨は感じた。だが…。
(失恋でも何でもいい…朱莉さんに会えるなら…!)
琢磨はすぐに返事を打って、送信した―。
午後6時―
退勤しようとする琢磨に二階堂は声を掛けた。
「大丈夫か、九条。俺が付き添ってやろうか?」
「大丈夫ですよ、先輩。子供じゃないんですから。それにこれが恐らく朱莉さんと2人で会う最後の機会かもしれませんから…」
力なく笑みを浮かべる琢磨を見て、二階堂はポンと肩に手を置くと言った。
「九条…」
「何ですか?」
「安心しろ、骨は拾ってやるから」
「…それ、本当に笑えない冗談ですから…」
琢磨は恨めしそうに二階堂を見るのだった―。
午後7時に六本木ヒルズ51Fにある和食ダイニングバー。
琢磨が朱莉と待ち合わせ場所に指定した店だ。店内に入ると既に見事な摩天楼の夜景が見える窓際のテーブルカウンターに朱莉が背中を向けて座っていた。
「朱莉さん…」
震える声で琢磨が声を掛けた。すると朱莉はパッと琢磨の方を振り向いた。
上品な水色のワンピースに薄化粧、淡いルージュを引いた朱莉は…本当に美しかった。ほっそりとした首にはチェーンのネックレスを付けている。
「九条さん…お久しぶりです。すみませんでした。お忙しい中急にお呼び立てしてしまって申し訳ございません」
頭を下げる朱莉に琢磨は言う。
「いや、いいんだよ。朱莉さんの呼び出しなら…どんな時だって最優先するから」
するとそれを聞いた朱莉は困ったような表情を浮かべた。
(しまった…!俺は朱莉さんを困らせるような台詞を…!)
だが、その言葉は琢磨にとって本心だった。何を犠牲にしても最優先したい相手は紛れもなく目の前にいる朱莉だったのだから。
「あ…ごめん。変な事言って…。とりあえず、座ろうか」
「はい…」
2人の間に微妙な緊張感を保ちながら、琢磨は予約しておいたメニューを頼んだ。
「とてもきれいな景色ですね…」
窓ガラスに自分たちの姿を映している高層ビルの美しい夜景を見ながら朱莉がポツリと言った。
「ああ、そうだね…」
琢磨は曖昧に答える。そこへワインが運ばれてきた。ウェイターがワインを置いて立ち去るまで、2人は無言だった。琢磨は朱莉の様子を横目で伺うと、何かにじっと耐えているようにも見えた。
(ひょっとするともう俺の気持ちに気が付いているのかもしれない…。朱莉さんは優しい人だ…。こうなったら俺から言って彼女の肩の荷を下ろしてあげるべきなんだ…)
そして琢磨はグラスを持つと言った。
「朱莉さん…結婚するんだろう?おめでとう」
その言葉に朱莉は、ハッとなって顔を上げた。その瞳は動揺で激しく揺れている。朱莉のその姿を見た時、琢磨は思わず力強く抱きしめたい衝動に駆られたが…それを必死で抑えると言った。
「朱莉さん…乾杯…しよう」
「はい…」
朱莉はコクリと頷いたが…その肩は小さく震えていた。やがて料理が運ばれ…2人で食事をしながら、朱莉はこれまでの経緯をポツリポツリと語り始めた。
突然明日香が長野から東京にやって来て、蓮と過ごす時間が長くなったこと…そしてついに蓮に自分が本当の母親だと名乗ってしまった事、翔の突然の帰国に、会長の取った驚くべき行動…。
琢磨はそれら一連の話を時々相槌を打ちながら話を最後まで聞いた。
やがて食事が全て終了すると、朱莉は一度深呼吸すると、言った。
「すみませんでした。九条さん…」
「何故…謝るんだい?」
「そ、それは…九条さんが私の事を…」
それを琢磨は止めた。
「いいよ、朱莉さん。それ以上の事は言わなくて」
「え…?九条さん…?」
九条はズキズキと痛む胸の内を隠しながら言う。
「朱莉さん…ずっと好きだったよ」
「!」
朱莉の肩が小さく跳ねる。
「だから…俺は朱莉さんを困らせたくない。…結婚おめでとう。朱莉さん」
「九条さん…」
朱莉の顔は泣き笑いの様だった。
「2人は高校時代から思いあっていたんだろう?そんなんで…俺が叶うはずはないしな…。それに各務さんは本当に心優しい人だ。きっと彼なら朱莉さんを幸せにしてくれるさ」
「…!」
朱莉はその言葉に黙って頷く。
「結婚をする2人に頼みがあるんだ…」
「頼み…ですか?」
「ああ…本当に悪いとは思うけど…2人の結婚式の招待状…辞退させて欲しい。頼む…!」
琢磨は頭を下げた。
「わ、分かりました…」
朱莉は声を振り絞るように言う。
「ありがとう…。朱莉さん。俺はここでもう少し飲んで帰るよ。送ってあげられなくて…ごめん」
琢磨は朱莉の方を見もせずに窓の外の夜景を見ながら言う。
「わ、分かりました。九条さん」
朱莉は椅子から立ち上がり、九条に頭を下げた。
「今まで…本当にありがとう…ございました…」
「元気でね…朱莉さん。お幸せに」
琢磨はチラリと朱莉を見ると視線を窓の外に移した。
「は、はい…!」
「・・・。」
朱莉が去った後、1人残された琢磨は追加で注文したワインを黙って飲んでいた。
そして苦しげにぽつりと言った。
「朱莉さん…本当に…大好きだったよ…」
そしてワイングラスを煽るのだった。
コツコツとヒールの音を鳴らし、朱莉は六本木ヒルズビルを出て夜の町を歩いていると巨大蜘蛛のオブジェの前に修也が立っているのが目に入った。
「修也さん…!」
朱莉は駆け寄ると、修也の胸に飛び込んで行った。
「朱莉さん…」
修也は朱莉をしっかり胸に抱きしめると、腕の中ですすり泣く朱莉の髪をそっと撫でるのだった―。
****
あれから半年の歳月が流れた。琢磨は今羽田空港に来ている。
琢磨はTシャツにジーンズ姿とラフな姿をしていた。
『九条、本当に式に参加しなくていいのか?』
電話越しからは二階堂の声が聞こえる。
「ええ、いいんですよ。それより、もう切りますよ。飛行機の時間が迫っているんで」
『お前なぁ…何もこんな時期に沖縄に行かなくたって…』
「こんな時期だから行くんですよ。大切な用事があるんでね。それじゃ切りますよ」
琢磨は最後まで二階堂の話を聞かずに電話を切ると言った。
「さて…行くか」
そしてすがすがしい顔で、琢磨は搭乗口へと向かって歩き出すのだった―。
<終>
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