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エピソード 0 須藤朱莉の物語
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン…お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。
そんな空間が『私』…須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。
朝の7時―。
チーン…。
今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。
仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。
「お父さん…。今日こそ書類選考が通るように…見守っていてね」
仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。
須藤朱莉 24歳。
今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。
しかし、じっくり見ると…本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。
堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。
そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。
「いただきます」
小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ…。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。
手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。
「大変っ!早く行かなくちゃ!」
玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。
朱莉の勤務先は小さな缶詰工場である。
そこで朱莉は一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等…ありとあらゆる事務作業をこなしている。
「おはようございます」
プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声を掛けて来た。
「お早う、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」
「はい、分かりました」
朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。
このように朱莉は普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。
この工場で働いているのは全員40歳以上の女性で既婚者もしくは独身者である。
朱莉のように若い従業員は居ないので、当然女性達からのやっかみもある。それ故わざと地味で目立たない姿をし、息を潜めるように日々の仕事をこなしていた。
17:30―
朱莉の退勤時間になった。
「すみません、お先に失礼します」
ロッカールームで手早く着替えを終わらせた朱莉は事務所にいる片桐英子に挨拶をした。
「あら、須藤さん。お疲れ様。今日も病院に面会に行くのかしら?」
「はい、母が楽しみにしていますので」
「それはそうよね。所でお母さんの具合はどうなの?」
「それが…特に変わりはありません。小康状態を保っている感じです」
「あら、そうなのね…」
「でも、この間主治医の先生が母の病気に効果のある新薬が開発されたそうなので試してみてはいかがでしょうかと声を掛けられたんです」
「あら、そうなのね。その薬でお母さん良くなるといいわね」
「はい、ありがとうございます。では失礼します」
朱莉は職場を出たが、その表情は暗い。
(いくら、新薬が出たからって…今の私にはとても無理だよ…)
主治医が提案して来た新薬は驚く程高価なものだった。
朱莉の手取りは16万円でパート事務員なので当然ボーナスは無し。
家賃は5万5千円で、何より一番朱莉の生活を圧迫しているのが、彼女の母親の入院費である。無理がたたり、長い間病気を患い、入院生活はもう3年になろうとしている。実は母には内緒にしているのだが、朱莉は銀行から100万程の借金もしていた。
そんな状態ではとてもでは無いが新薬には手が出せない。
勤務先で後2万円ほど給料を上げて貰えればと思うのだが、所詮小さな町工場。
殆ど自転車操業並みに近いので、とてもでは無いが給料アップは望めない。
なので職場には内緒にしているのだが、朱莉は給料も良い新しい勤務先を探していたが、朱莉は大学を卒業どころか、高校を中退していた。その為履歴書を送付した段階でいつも書類選考で落とされていたのである。
朱莉の父が健在だった頃は社長令嬢として蝶よ花よと何不自由ない暮らしで、学校も私立の名門の高校に通っていた。しかし父の病気により業績は悪化。そして父の死と共に降りかかってきたのは会社の倒産だったのだ。
当然朱莉はやむなく高校を中退し、その後は病弱な母と力を合わせて何とか生活していたのだが、働き過ぎで母はとうとう身体を壊してしまい、現在に至っているのである。
いっそのこと、夜の町で働いてみようかと思った事は何回もあったのだが、社長令嬢として育ってきた朱莉に取っては怖くてその世界へ進めずにいた。
考え事をして歩いていると、いつの間にか母の病室の前に着いていた。
(いけない、こんな暗い顔していたらお母さんが心配しちゃう)
朱莉はわざと笑みを作ると、個室のドアをノックした。
コンコン。
「朱莉ね?」
病室の中から母の声が聞こえた。
「お母さん。具合はどう?」
笑顔でベッドの母親へと近づく。
「そうね。今日は少しだけ体調がいいみたいよ」
青白く痩せこけた母が弱々しい笑みをうかべる。
(また…。嘘ばっかり…!)
母の下手な嘘に思わず涙が滲みそうになるが、ぐっとこらえて朱莉は母に色々な話をした。
職場では皆に良くして貰えているとか、今年は臨時のボーナスが出そうだとか…全て口から出まかせであったが、少しでも母の笑顔が見たかった朱莉は今夜も嘘を重ねていく。
「それじゃ、また明日ね。お母さん」
朱莉は母に挨拶をすると病室を出て溜息をついた。
(はあ…またお母さんに嘘ついちゃった…。お腹空いたな‥。でもお給料前だから、今夜はカップ麺かな…)
そして朱莉は暗い足取りで家路に着いたのだった。
アパートに帰ると郵便受けのA4サイズの封筒が入っていた。
「あれ…?何だろう?この書類…あっ!」
朱莉は封筒に書かれている社名を見て声を上げた。そこに書かれていた書類は1週間ほど前に履歴書を送った、ある大手の総合商社の社名が印字されていたのである。
「ま、まさかっ!書類選考が…通ったの?!」
朱莉は急いで鋏で封を切って書類を取り出した。
『須藤朱莉様。この度は当社にご応募頂きまして、誠にありがとうございます。書類の一次選考が通りましたので、面接に進めさせて頂きたいと思います。つきましては下記の日程でご案内させて頂きますが、都合がつかない場合は改めてご連絡下さい。電話番号は…』
朱莉は興奮のあまり、声に出して書類を読み上げていた。
「う、嘘みたい…。初めて書類選考が通るなんて…。何でかなあ…。今までは学歴ではねられているとばかり思っていたけど…?でも、良かった!始めて面接に進める…。頑張らなくちゃ!」
この時の朱莉はまだ全く気が付いていなかった。この書類選考が通った本当の意味を…。そして自分の運命が大きく変わろうとしている事を―
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