イントロダクション―ヒステリシス系統―

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三月十日 曇り あの人から連絡はない。あの人から連絡がない。食事は喉を通らない。しばらく何も食べていない。今朝、吐き出したのは胃液だった。酷い味だった。早くあの人を見つけないと。守らないと。わたしまで、おかしくなってしまいそう。 着信もメールもない。彼に取り付けてあるGPSの情報にも相変わらず変化はない。もしかして、どこかで外れてしまったのかも。衣服に仕込むんじゃなくて、直接飲み込ませるか、肌に埋め込むかするべきだったわね。あぁ、わたしの馬鹿。 足に上手く力が入らない。でも、行かないと。まっすぐ歩けない。でも行かないと行かないと行かないと。あの人を助けないと。守らないと。今もどこかでわたしのことを待っているのだから。  改札を通り、階段を下り、少し進んだところにある別の階段を上っていく。気を抜くとまた吐いてしまいそうだ。あの人の顔を思い浮かべて、どうにか上りきる。辿り着いたのは、駅のホームだ。丁度電車が来たところだった。発車のベルが鳴っている。あの人を助けないと守らないと行かないと行かないと乗らないと早く早くはやくはやくはやくはやく、乗ら、ない、と――。 「大丈夫ですか?」  いけない、一瞬意識が飛んでいた。周囲を確認する。電車には乗れなかった。そしてわたしは誰かに支えられて立っているようだ。いけない、あの人以外の匂いが体に付いてしまう。髪に付いてしまう。あの人に、嫌われてしまう。 「大丈夫ですから、離れてください」  あの人に会った時、他の人の匂いが付いていたら会えないわ。わたしに触れている人間を振り払おうとするが、上手く力が入らない。あぁ、電車を降りたら服を買い換えないと。それから銭湯でも探してしっかりと体を洗わないと――。 「ちょっと、本当に大丈夫? 手、貸すよ。真琴、駅員さん呼んできて!」 「う、うん……!」  また意識が飛んでいた。肩を支えられながら、歩いている。くそ、情けない、あの人の下へ行くどころか、一人で立って歩くことも出来ないなんて。もういっそこのまま電車に飛び込んで死んでしまった方がいいのかもしれない。でもそれは出来ない。せめてあの人を見つけて安全を確認して、あの人の周囲の人間が二度とあの人に暴力を振るったり迷惑をかけたりしないように十分警告をして、警察にあの人を二十四時間監視して守るように言ってからじゃないと、わたしは死ねない。 「どこか痛いところはない?」  それにしてもこの男、ずいぶんしつこい。離れろと言っているのにずっと隣にいるし、さっきからずっとわたしの肩を摩っている。わたしを心配するフリをして、わたしに触れようという下心が見え見えだ。もしかしてこの男、わたしに何かしたのだろうか。そして弱ったわたしをどこかに連れ込んで強姦でもしようというのではないか。ならさっさとこの男を殺して逃れて、あの人の所へ急がないと。 「恵、駅員さん連れてきたよ!」  ケイと呼ばれたこの男がさっき命令を下していた女が走って戻ってくる。男女のペアだったか。とすると目的はわたしのお金か何かだろうか。二対一だと分が悪い。なら、手遅れになる前に――。 「ありがとう真琴。それじゃあ駅員さんも来てくれたし、僕らはもう行くよ」 ――頭に置かれた優しい手に、思考を遮られる。わたしの体から男は離れ、頭を軽く撫でてくる。直ぐに手を離され、撫でられた頭に自身の手を置く。なに、これは。意味が分からない。 「それじゃ駅員さん、後はお願いします、君、体調悪いなら無理しないようにね」  見上げると、男の……彼の笑顔と目が合った。瞬間、心臓に矢が刺さる。いや、この衝撃は剣でも突き刺さったのかもしれない。整った輪郭、緩やかにしな垂れる目尻。素敵。格好良い。それだけじゃなくて、わたしを気遣うその優しさも、わたしが拒絶しても紳士的に対応するその姿も、なによりその花が満開に咲き誇るような笑顔が、笑顔が……。 「好き……」  あの制服はどこの制服だっただろうか。調べないといけない。到着した電車の中へ彼が消えていく。この路線の沿線近くにある学校を調べれば、直ぐに確認出来るだろう。わたしは駅員を振り払い彼を追いかけたい衝動に駆られたが、そこをぐっと堪えて一旦家に帰宅することにする。ここで彼を追いかけたところで逢瀬は一瞬。彼の学校まで着いて行ったところでずっと一緒にいることは出来ない。彼の傍にいてもいい理由を作らないと。その為には欲望をぐっと抑え込み、一度家に引き返すべきだ。家にはあまり居たくないのだが今回は事情が事情だ、やむを得まい。 「そう言えば……どうしてわたし、こんなところにいるのかしら」 駅員を振り払い急ぎ帰路に着く。ああ今頃彼はどうしているだろう。わたしの背中を擦ってくれたゴツゴツとした優しい手を、支えてくれた逞しい腕の感触を思い返す。ああ好き。もっと寄り添っていたい。傍にいたい。抱きしめてほしい抱きしめたい結婚したい。ああ苦しい。苦しいの。彼の隣にいた女のことを思い出すと、胸が苦しくて死んでしまいそう。彼に何か悪さをしているかもしれない。見ず知らずのわたしにさえこんなに優しくしてくれるのだから、近寄ってくる女にたぶらかされてしまうかもしれない。ああそんなのいけないわ、いけないわ。どうしてこの世界は優しい人に優しくないのかしら。優しい人を不幸にしようとするのかしら。そんなこと、絶対に納得出来ない。彼はわたしが幸せにする。そのためにはわたしが傍にいて、守ってあげないと。支えてあげないと傍にいてあげないと。そうすることで彼は幸せになり、彼が幸せでいることが、わたしの幸せ。彼のためにわたしのために、わたしは家に家に家に帰らないと。急がないと。  そっと玄関の扉を開ける。アイツが寝ているのなら、その方が都合が良い。必要なのは印鑑と免許と通帳。靴は脱がず、そのままリビングへ向かう。扉の端から室内を覗き込むと、散乱した家具やゴミ、ガラス片やプラスチックの残骸が床一面に敷き詰められていた。人間が住む場所じゃない。昨日わたしがいない間に、またひと暴れしたらしい。母は既にこの場所を去っている。それなのに、何故アイツがわたしの父親を名乗っているのかというと、両親はまだ籍を抜いていないからだ。そして、何故母はわたしをアイツの傍に置いていったのかというと、わたしを連れて行けば自分ごと連れ戻されてしまうからだ。言い換えるならば「わたしを囮にして母は逃亡を図った」ということになるし、その認識で間違いないだろう。それに腹を立てている暇が今のわたしにはないので知ったことではない。寝室を覗く。アイツは眠っているようだ。昼間から働きもせずに酒を飲み、意識がある時は暴れまわる。獣以外の何物でもない。早々に必要なものを抜き取り立ち去ろう。印鑑と通帳は引き出しの上から二番目。鍵は掛かっていない。免許証は机の上にある財布の中に入っている。よし、これで必要なものはそろっ―― 「なにしてんだおまえ」  側頭部に強い衝撃が走り、そのままリビングと寝室の境目まで吹き飛んだ。視界がグラグラと揺れる。堪らずそこに吐瀉物をぶちまけた。そう言えば、結局わたしはまだ何も食べていない。彼の傍にいけば、わたしもようやく安心して眠れるし、食事も出来るというのに。  腹を踏まれる。彼にはあまり聞かれたくない、可愛くない声が漏れ出た。踏まれ慣れたせいで痛みはあまり感じない。ただ、体から力が抜けていく。霞んだ視界でアイツを見る。わたしを見下ろしていた。大丈夫、大丈夫だいじょうぶダイジョウブ大丈夫だよ大丈夫だからダイジョウブでしょだってだってだってもうすぐ彼に彼に彼に彼に会える会える彼と居られる彼を愛せる彼を守れる大丈夫だいじょうぶダイジョウブ大丈夫だよ大丈夫だからだってだってだってもうすぐ彼に彼に彼に彼に会える会える彼と居られる彼を愛せる愛愛愛愛彼を守れる愛愛愛愛大丈夫だいじょうぶダイジョウブ愛愛愛愛大丈夫だよ愛大丈夫だ愛からダイジ愛ョウ愛ブで愛し愛ょだ愛って愛だって愛だって愛もう愛すぐ愛彼に彼に彼に彼に会える会える彼と居られる彼を愛せる彼を守れる愛せる愛せる愛せる愛せる愛せるから―― 「が」 ひとしきりわたしを踏みつけた後、リビングへ向かおうとするアイツの首元にスタンガンを突きつけ、電撃を放つ。ふにゃりと顔面から床に崩れ、指先を痙攣させ泡まで吹いている。 「……無様ね」  それはお互い様か。まぁ、それはいい。彼への愛でなんとか耐えきった。耐えきることが出来た。やはりこの世界で一番強い武器は愛なのよ。間違いないわ。だって彼と出会ってなかったらわたし、きっともう殺されていたもの。出会えて良かった。そういう意味でも、彼はわたしの命の恩人。だから、恩返しをしないとね。  もう一度、床に伏せるゴミを見つめる。このまま殺してしまっても構わないのだが、それだと彼との間に別の障害が生まれてしまう可能性が出てくる。だから、こいつとも上手に付き合わなければいけない。出来る。出来るわ、わたし、そのくらい。だって彼を愛しているもの。 ……さて、そうと決まれば急がないと。まずは学校を調べて、願書を貰って、あとは今の学校に転校の話を伝えないと。それからそれから……あぁ、あぁ、待っていて。待っていてね。もう直ぐ傍にいけるから。行くからね。それまで、待っていてね。  吐瀉物が付いた服を着替えるため、一度自室へ戻る。机の上にはモニターが三台と、位置情報がマッピングされたパソコンが置いてある。早くこれで彼を見守れるようにしないと。それにしても、今映っている映像はどこのものかしら。わたしったらうっかりさんね。まだ彼の家がどこかも調べていないのに。一度カメラを回収しに行かないと。発信機は……いいわ、新しいのを買い替えましょう。 身動きしやすい衣服に着替えて、わたしは家を出た。あぁ、早く彼と一緒に……。
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