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せっかく地獄のバレー部から逃避できたのに、新しく始まった部活は毎日遅くまで練習させられました。
時には、結婚式や東京での演奏会などに呼ばれ、演奏することもありました。珍しい楽器なので、需要があったのでしょうか。
ただ、せっかく高校に入っても勉強嫌いはなおらず、授業は寝て過ごしました。しかし、福祉コースに行きたくて入学したので、福祉系の授業だけは全て真面目に取り組んでいました。
昔から、興味のあることだけには集中できるようです。
そんな毎日を送る中、部活でもやる気のなさが出始めます。顧問のいる前では、筋トレも練習もしっかりやりましたが、いない時には、断然やる気が起きない。
そんな私を、顧問は嫌いだったのでしょう。とにかく怒られっぱなしの毎日でした。
よく「恩師にお世話になりまして」という言葉を聞きますが、正直恩義なんて全くございません。
そもそも、顧問が目指しているところと、私が求めているところとで温度差があったので、私にとっては彼女の熱意がただただ面倒で、独りよがりに見えていました。
スポーツが嫌いというところから察していただけるかと思いますが、もともと皆で1つの目標を掲げてそれに向かって熱い気持ちで努力するということが苦手です。というよりも嫌いです。
部活に対しては、趣味程度に和気あいあいと楽しめたらいいかなくらいにしか思っていませんでした。なので、文化祭で披露するためにその時期だけは、力を入れて努力することは理解できても、日頃からがむしゃらに頑張るのは理解できませんでした。
毎日部活が終わった後、自宅でA4のルーズリーフに1日の反省点や課題などを1枚びっしり埋めて、次の日に提出するという日課がありました。私は、それも嫌いだったので、そのことも文章に現れていたのでしょう。
今ほど言葉も選べなかったので、返って来たコメントには「あなたは何様ですか?」なんてことを書かれたこともありました。
そんなに上から目線で文章を書いたつもりもありませんでしたが、その反省文を書くために睡眠時間を削ったり、毎日怒られる中で、心身供に疲弊していきました。
挙げ句、「あんた、煙草吸ってるでしょ? あんたから臭いがする」なんて言いがかりをつけられる始末。おそらく、うちは家族が煙草を吸うので、制服に臭いがついていたのだと思いますが、あの高圧的な言い方も、決めつけたような言い方も大嫌いでした。
そんな生活が続き、高校二年生の夏ごろ、ストレスから円形脱毛症になりました。俗に十円ハゲといいますが、きれいに丸いハゲが二つできました。
間違いなくストレスは、部活とその顧問でした。
母に相談すると、顧問宛に母が手紙を書いてくれ、それを渡すと顧問にハゲを確認されました。
それもとても嫌でしたが、それからは少しだけ当たりが弱くなった気がします。決して優しくはありませんでした。
そんなになってまで部活を続けたのは、中学時代と理由は同じです。また、顧問以外の先輩や同級生とは仲が良かったので、もう少しだけ我慢しようと思えたのです。
二年の文化祭当日、そろそろオシャレに目覚めるお年頃だったので、練習もせずに部室で隠れてコソコソとお化粧をしていました。
そこを顧問に見つかって、ぶちキレられます(笑)
今思うと、私達にも非はあるのですが、高校生の時にしかできないオシャレももっとしたかったなと今でも思います。
制服を着られるのも高校生の内だけだし、たった3年しかない貴重な時間を、校則で制限され過ぎるのももったいなかったなと思えてなりません。
それでも、学校側としては品行方正な生徒を欲しがるのだから、運営側と生徒側とでは高校に対するイメージに相違が出るのは当然なのですが。
とにかく、そんなつらい部活も、三年になると顧問が変わることになりました。
顧問が、退職することになったからです。理由は体調不良でした。
もともと持病があったのか、新たに発症したのはわかりませんが、療養のため退職に至りました。
私は、現在看護師ですし、当時も介護職を目指す生徒でしたが、彼女の病気に対して、可哀想だとか、早く元気になるといいなだとかという感情は全くありませんでした。
ざまあみろとは思いませんが、強いて言うなら「無」。彼女に対して何の感情も湧きませんでした。とにかく、何でもいいから学校から早く去ってほしかった。目の前から消えてほしかった。二度と関わらないでほしかった。それほどまでに、私は彼女のことが嫌いでした。
彼女に嫌われていたことも、こちらは了承済みです。
嫌いだから病気になってもいいだなんてことは微塵も思いませんが、応援する気持ちも微塵もありません。勝手に闘病すればいい、ただそれだけです。
そんな私も、高校二年生から闘病生活となりました。
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