天華月輪

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天華月輪

 遠くから響いてきた汽笛が、眠りの底から僕をひきずりあげた。泥濘のような夢の残滓が覚醒とうたたねの秤をぐらつかせる。規則正しい振動が、眠気を篩い落とすように、ダッフルコートに包まれた身体をゆさぶっていた。頬を撫でる冷気に瞼を持ち上げる。車窓という銀幕では吹雪の雪原が後方に流れている。車内のあたたかさに曇る硝子の裏側には、窓の隅にへばりついた霜とも氷ともつかない水の化身が、四方から伸ばした葉脈とも結晶ともつかない腕を、夜を透かしながら硝子に喰いこませていた。  顎をマフラーにうずめる。陽のもとにおいて輪郭のぼやけがちな雪は、夜においてそのかたちを瞭然とする。雪あかりの鮮烈さは鋭利にすぎた。眼窩の奥にもたらされた疼痛から逃れるために、僕は瞼を落とす。  汽車には空席が目立っていた。通勤通学の時間からずれているということもあるだろうが、このあたりの住人であれば通勤には車を使うことが多いだろう。膝にある土産と日用品を詰めた鞄を、手袋越しに握りしめる。  父が出張で帰ってこないところに母の同窓会が重なって、二日連続となる休日を息子ひとりで過ごさせるのは心配だからと、両親は僕の逗留先に祖母の家を選んだ。高校一年生なのだから留守番くらいできると難色を示すと、祖母は御赤飯を炊いて待っていると返される。祖母の御赤飯は僕の好物だ。かくして僕は母の術策にはまった。  最寄り駅から祖母の家までは、雪がなければ徒歩で二十分程度だ。地平線もかくやという水田を貫いて駅から伸びる道を直進し、稲穂の大地に黒く盛り上がる糸杉を通り過ぎ、最初の岐路を曲がって辿りついた集落の自販機の置かれた角の先に、祖母の家はあった。  車掌の声が駅名を告げる。軋みをあげて車輪が停まる。僕は目的の駅に降車した。  ホームは雪で埋もれていた。木造の駅舎は降り積もった雪の重みで傾いでいる。僕の他に降車する者はいなかった。ホームに横たわる光の長方形が細くなって、汽車の扉が閉まる。風の咆哮が頭上を奔る。寒さに耳が凍り、四肢の端において血流が涸れかける。駅舎の柱にくくりつけられた裸電球が、やわらかな陽だまりめいた彩りをもって、斜めに吹き荒ぶ雪の群れを浮き彫りにした。駅員のいない改札の木箱に切符を落とし、僕は駅舎を出る。  そこには、茫漠たる雪原があった。  吹きつけてくる粉雪に耐え切れず、僕は進行方向に背を向け、後退をもって前進することに決める。道の両端にそびえる赤白のポールを頼りにそろそろと踵を這わせていると、駅から汽車が滑り出た。白の結晶が吹き荒れる宙空を、車窓たる光がはしっていく。車輪の枕木を越える音が、雪に呑まれかけながら次第に間隔を狭めていった。降りしきる雪の紗にぼやけた月が滲んでいる。雪のもたらす大気のほのかなやわらかさに頬を濡らしつつ、僕は膝裏で雪をおしていた。溝でしかない足跡に落ちてきた雪片が突き刺さる。裂かれた痕などなかったかのように、僕の歩んできた道筋は、ぼやけて埋もれて、降り積もる結晶の底に蕩けてゆく。堆積する層にすらなれないのだから、化石として堀り崩されることもない。はるか上空から落ちてくる結晶と融けあえるのなら、かたちすら残らない僕の足取りは、かたちすらない氷の層に鎖されて、地の底へと沈むことができるだろうか。  踵が硬いものに触れ、雪の下に張っていた氷に足を滑らせた。一瞬の浮遊感。落ちてくる白の乱舞を正面にとらえる。唇に冷たさが弾けた。積雪によって幾分やわらげられた襲撃が脊椎をはしり、雪を巻き上げながら仰向けに倒れた。球形の月が滲んでいる。風に翻弄されながら飛びまわる雪華は、残像たる軌跡を重ねる蛍火か。  身を起こそうと手をつくと、僕が崩した雪の端から石がのぞいていた。石塀か石堤の基礎だろう。雪を掃いながら立ち上がり、雪をはねのけて歩を進める。結晶の花びらがゆるやかに舞い降りた。僕の吐いた息は白く流れ、僕の熱に晒された雪は小さくなりながらはしゃぐように踊る。  いつしか夜は凪いでいた。雲が裂け、月が輪郭をあらわにする。皓々たる月輪は星を喰らい、空を染めた。天華に埋め尽くされた静謐なる雪原で、荘厳なる燐光が湧き昇る。光は七色に飛散する。上も下も眩く、右も左も白銀だ。あまりにも白銀に囲まれすぎていて、歩を進めているはずなのに、僕のいる銀世界は静止している。現象と印象がちぐはぐすぎて、意識という安定した落し蓋の底で煮えたぎる眩暈めいたぐらつきに溺れかける。気まぐれに遊離し噛み合わない感覚が、悪寒となって口腔に詰まる。 足を停め、渇いた喉から嘔吐くように息を押し出した。迷ったのかもしれないという予感に立ち尽くす。強張った触覚が焦りだけを感知する。  周囲には白の大地と皓の空しか見えない。それらは穏やかゆえにおそろしい。  どこかで鈴の音がしたような気がした。  視界の隅に動くものをとらえる。縋るように眼を移すと、青緑の羽毛が白銀に浮いていた。 「雉子?」  呆然と、呟く。いつからそこにいたものか、僕の足もとに頭の赤い鳥がいた。濃淡の異なる茶でできた縞がくるりと回る。長い尾をこちらに向け、雪に小枝のような足跡を残しながら雉子は歩き出した。艶やかな青緑の鳥は、進んでは停まり、背後を窺うということを繰り返す。冴えた月光が地を撫でて、真珠の輝きが雪原にさざめく。追い風に急かされた僕は雉子を追いかけた。  地走りが粉雪を舞い上げる。旋風のかたちに結晶が逆巻く。やがてそれらは纏まりはじめ、かたちを濃くし、黒の爪が雪あかりに晒された。中空に浮いているのは繊細なつくりのやわらかな手首。  天球が軋み、剥がれ落ちた透明が鈴の音となって落ちてくる。  舞い降る天華は馨しき手首を現出した。振袖から伸びた女の手が、黒の爪に彩られたその指先が、明確な方向を示して静止する。指の先には橋があった。導かれるままに僕は橋を渡る。吹きつける雪が頬を打つ。吹雪の幕の向こうに、見たことのある自販機があった。幼い頃より慣れ親しんだ祖母の家が、雪吊りのされた庭木の隙間から覗いている。  振り返ると、そこには雪原しかなかった。  耳を塞ぐ吹雪のうなりを鈴の音が貫く。馬の嘶きが真白の腕を迎える。迎えと戯れる鈴の鳴りが、頭蓋のうちに渦を巻く。  降りしきる天花は月を呑み、斑に逆巻き優美に舞い踊りながら、白銀に降りつもっていった。
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