心を磨く

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心を磨く

 塩崎先生はピアノの演奏の仕方を説明するために難しい言葉をわかりやすく教えてくれた。キヨがプライベートという言葉を知っていたのも、そのためだ。  ショパンのノクターンを練習する時に、こんなことを言った。 「ノクターンは、夜、一人で静かに心の中を見つめる気持ちを歌うんだ。布団の中で目を閉じた時、心の中や体の中に残っている気持ち、湧き上がる気持ちを正直に見つめる。泣きたいほど寂しかったり、ほんわりと嬉しかったり、少し不安になったり、激しく怒りが込み上げたり。でも明日また頑張るために、自分で自分を慰めて、静かに気持ちを落ち着かせて眠る。それがノクターンだ。ノクターンは他の人に説明したくない自分だけの秘密の気持ち、大好きな人への想いを、言葉じゃなく音楽で表現している。そういう気持ちをプライベートと言うんだ。言葉にしてしまうと、せっかくの美しい幻想が消えてしまう。プライベートな気持ちは言葉じゃなくて音の味わいで表現する方が、ずっと素敵なんだ。そう思うだろう?もちろん絵に描いても良い。箱庭にして表現してもいい。例えば言葉でも、素敵に表現しようと思ったら詩にする方法もある。」  毎回、レッスンの時に、こんな説明をしてくれる。だから私たちは、プライベートという言葉の感覚を一年前から何百時間も(まさぐ)ってきた。他にもデリケート、デリカシー、繊細、(はかな)い、微妙、満たされる、満たされない、神秘、神聖、真実、虚構(きょこう)、情熱、差し迫る、リスペクトなど様々な心の状態を表す言葉について、塩崎先生は、その時々に私たちの生活に例え、わかりやすく説明してくれた。  先生のピアノのレッスン室にはグランドピアノが二台並んでいたので、私とキヨは2人いっしょにレッスンを受けることもあった。  キヨは私の家から帰った後、寝る前の1時間は1人で練習するか先生とレッスンすると言っていた。私も同じ時間、1人で練習するか兄にレッスンしてもらった。  塩崎先生はピアノなど楽器というものは、音で心を美しく磨き上げるための道具だと言った。心は磨くものを間違えると傷だらけになる、とも言った。ツルツルのピアノを磨く専用の布でピアノの蓋を磨かせてから 「もしナベのコゲを落とす、このタワシでピアノを磨いたらどうなるかな?」 とガサガサのタワシを見せた。手の甲にタワシを当てて 「コレで手を磨く勇気ある?」 と笑った。 「言葉や行動は心を磨く一番大切な道具だよ。汚い言葉や乱暴な行動は、このタワシと同じ。心を傷つける。」 それは何度も繰り返して言われた。 「心が強くなるために、いろいろな経験をして、ちょっとくらいじゃ傷つかないように鍛えることも大切。」 「現実の世界でいろいろな出来事にぶつかる前に、物語や音楽の世界で、タワシで心を磨く練習をしておくんだ。練習して訓練しておかないと、急に心にトゲが刺さったり、深く傷ついた時に、どうすればいいかわからないだろう?」  先生はよく本を読んでくれた。絵本もたくさん読んでもらったけど、そのうち 「絵を見ないで心で想像する練習」 と言って、日本昔話や宮澤賢治や新見南吉、椋鳩十、アンデルセン、グリム童話などを読んで聞かせてくれた。長い話は何日かに分けて聞いた。  私とキヨは寝そべったり先生に膝枕したり好き勝手な格好で本を読んでもらう時間が大好きだった。  キヨは1人で読んでもらったお話があると、私に語って聞かせた。キヨの話し方は妙にギラギラして、先生の話し方が普通のガラス窓を通してお話しの世界を見るとするなら、キヨの話し方はステンドグラスを通しているみたいに思われた。『本当にそんな話かな?』と疑ってしまうくらい、キヨの心を通過した物語は不可思議な脚色で毒々しく飾り立てられていた。  私はキヨのお話しを聞くのが好きだった。 「ねえ、浦島太郎ってどんな話だっけ?」 「亀に化けた男が浦島太郎をダマして竜宮城へ連れて行く。竜宮城には怪しい乙姫という妖怪がいて、浦島太郎と遊ぶふりをしながら、浦島太郎の若さを吸い取るんだ。乙姫は何千年も前から、亀が連れて来た男たちの若さを吸い取って生きているんだ。若さをすっかり吸い取られ、もう用のなくなった浦島太郎に魔法をかけて、家に帰りたい気分にさせる。陸に返された浦島太郎が玉手箱を開けると真実が見えてしまうんだ。」  キヨのお話が、いつもこんな怖い話になってしまうことを不思議に思い、私は、その訳を塩崎先生に質問した。 「キヨにはママがいない。僕は、その分も頑張って育てようとして余計なことまで教えちゃったんだ、きっと。」 先生は、そう言って笑った。 「メイがキヨに優しくしてくれたら、キヨはきっと素直な優しい人間になれるよ。よろしくお願いします。」 とも言った。  私はキヨがいない時には、何度も先生に恋を告白した。 「私、本当は先生が大好き。大きくなったら先生のお嫁さんになりたい。でもキヨがかわいそうだからキヨのお嫁さんになるって約束してる。私っていけない子かな?」  先生はいつも何度でも真面目に答えてくれた。 「メイの気持ちは、とても嬉しい。メイは、いけない子じゃないよ。まだ大人になるまで時間があるから、ゆっくり考えればいい。キヨはまだ子どもだけど、そのうち僕よりステキな人間になるかもしれない。僕もキヨもメイも、未来のことは誰にもわからない。誰を好きになっても、二人とも好きでも、メイの自由だよ。」
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