エリックの家

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エリックの家

 次の日曜日、私は塩崎先生の車でエリックの家に打ち合わせに行った。その間、キヨと兄は、先生に課題を与えられ2人でピアノの練習をして待っていた。  エリックの家は広い庭に囲まれたお城みたいに大きな建物だった。昔、某国の領事館だったらしく、エリックのお父さんは、その国の外交官だった。同時にエリックのお父さんはバイオリニストで、たまに演奏会を開くとか交響楽団に招かれるなど塩崎先生と話していた。    そのうちエリックのお父さんと塩崎先生がピアノのある部屋へ行き、何か演奏してみるという。  ラヴェルの『ツィガーヌ』をエリックのお父さんが弾き始めた時、その音が(かも)し出す異国の風に私の魂は完璧に惑わされた。そこへ塩崎先生のピアノが重なった瞬間の感動は、まるで(あや)しげな雲を突き抜け天国にたどり着いたみたいに光があふれた。  私の脳が音楽の魅力に開花した瞬間でもあった。私は音楽の海辺にたたずみ、その広さと深さを感じた。大人ってすごいと感じた。  エリックのお父さんは 「ショパンのノクターン1番、伴奏してくださいますか?」 と私に言った。私はドキドキしながらピアノに向かう。エリックのお父さんと目を見合わせて、呼吸を合わせ自然にノクターンを弾き始めた。エリックのお父さんの奏でるメロディーは美しいという言葉の意味が変わるくらいの美しさで、私はその音に釣られてなら、どこまでもどこまでも行ってしまうだろうと思いながら伴奏した。    1番を弾き終わった時、エリックのお父さんは私に微笑み 「他に何番弾けますか?」 と言う。 「2番、3番、4番、20番」 「では、番号順に全て合わせてください」  エリックのお父さんのバイオリンと合わせるのは夢のような時間だった。うっとりしていたいけれど真剣に、心はとろけそうでも指先は集中して、子どもながらにエクスタシィの海で大波に翻弄される小舟となって必死に耐えた。降り注ぐしぶきの心地よさに震えながら、その瞬間、その瞬間、私は大人に近づいて行くくらい深く感動した。 「メイ、素晴らしい。僕はメイとパートナー組みたいです。エリック、メイは僕に譲って下さい。」 エリックのお父さんは笑いながら、そう言ってピアノの椅子に座っていた私の右手を取って、手の甲にキッスした。  塩崎先生は私を椅子から抱き上げて頬と頬をくっつけながら 「がんばったな。ステキだった。大人みたいだった。メイ、大好きだよ。」 と言ってくれた。私は、その言葉が嬉しく先生の首に腕を回して強く抱きついた。  エリックとどんな曲を合わせるか、先生とエリックのお父さんとで相談している間に、私はエリックに家の中を案内してもらう。   外国の映画に出てくるような広いロビーや長い廊下、中庭の噴水、すべてが物語の世界。エリックの部屋だけで、勉強する書斎と寝室と応接室の3部屋あった。書斎は本棚に囲まれた狭い部屋で 「何となく狭い方が落ち着いて勉強できるんだ。勉強って言っても、ほとんど本読みしてるんだけどね。」 と笑う。 「どんな本読んでるの?」 「今、面白いと思ってるのはシャーロックホームズと、パガニーニの研究。」 「パガニーニの研究って?」 「パガニーニに関係ある本を探したり、ネットで検索したり、パガニーニの曲の弾き方をいろいろ試してみてるんだ。」 「どんな曲か弾いて欲しい。」 「いいよ。」  エリックは私を中庭が見える広いロビーに連れて行き、そこにある1つの大きな紫色の椅子を示し 「ここに座って聴いて。1番音響がいい場所だから。」 と言う。  エリックは中庭を背景にバイオリンを構える。軽く音を出し調整して、私を見て息を合わせるようにしてから、パガニーニ『カプリース24番』を弾き始めた。  素晴らしい演奏だった。みずみずしい澄み切った感性が音になって空間を満たした。私は伴奏しなくてよかったので、やっと安心して音に溺れた。安心して溺れるのは油断だった。私は感動し過ぎて泣き出してしまった。  演奏が終わりエリックは私の横に座ると 「ありがとう。メイ。感動してくれたんだね。嬉しいな。」 と言って、エリックも少し泣いた。  私は不安になる。私の知らないステキなことが世の中にはたくさんある。キヨと2人でコソコソと虫みたいに箱庭を這いずり回っているだけじゃダメなんだ、と実感する。
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