ピアノ中毒

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ピアノ中毒

 放課後、エリックの家でピアノを練習するだけでは足りず、先生の家に立ち寄った時にも先生とレッスンした。夜、寝る前にも練習した。朝も時間があればピアノに向かった。学校でも本当は弾きたかった。気がつけば頭の中で曲をイメージして机の上に指を走らせていた。 「メイ。うらやましいくらいピアノに集中してるね。」 とキヨは言った。私は楽しかった。やればやっただけ面白いように上達した。そういう時期だったのかもしれない。  私の熱中ぶりを見ていた塩崎先生は、 「キヨも誰かと組んで練習してみるか?」 と誘った。 「僕はメイ以外の誰とも組まない。」 とキヨは返事した。  キヨは一人で激しくピアノの練習をしていた。ハチャトゥリアン『剣の舞』、リムスキー・コルサコフ『熊蜂の飛行』などの指の動きの速い曲に凝っていた。 「何も考えられないくらい集中したい!」 と言っていた。    ショパンのノクターンを私と合わせてくれる時のキヨのメロディーは、数か月前とはまるで別人のように『歌い方』が変わった。『恋してる』からだと私は思った。  エリックと合わせる曲として私が一番の候補に考えて練習しているショパン『ノクターン8番 』Op. 27-2。エリックと合わせると美しさに天にも昇る気持ちになる。哀愁は漂っていても、エリックの響きは美し過ぎて胸の中に光が射し込んで来る。明るく暖かい太陽の光が私を包む。  それがなぜかキヨと合わせると、同じ曲なのに私は涙が止まらなくなる。体が感動して震え、椅子から落ちそうになる。  私は何がそんなに違うのか知りたくて、放課後、エリックの家にキヨもいっしょに来てもらった。うまく説明できないので私は 「ピアノとバイオリンの違いをみんなの耳で確かめたい」 とだけ言った。  初めにエリックのバイオリンと私は合わせた。ところが意外にも、その日のエリックの演奏はゾッとするほど伸びやかな音で、少しの濁りもなく透明に伸びる音が柔らかにしなるニュアンスがあまりに優しくて、私は伴奏を弾きながら胸が締め付けられ、息をするのも忘れるほどだった。バイオリンの美しさを保ったまま弱く繊細に伸びゆく音たちは体の奥まで自然にスーッと染み込んで、演奏が終わった時、私はしばらく身動きできなかった。私だけじゃなく誰も身動きできなかった。言葉を発することもできなかった。 「何だよ・・・これ・・・何だよ・・・」 キヨがそう言いながら泣き出した。  エリックも私も茫然としていた。こんな苦しいほど美しい音楽に到達するとはエリック自身も想像できなかった。ただひたすらに追い求めた美しさと、キヨという特別な観客がいたことから生まれる緊張とが、エリックの潜在的な情感を泉のようにあふれさせたのかもしれない。  エリックのお母さんが紅茶とケーキを運んで来てくれた。キヨだけが泣いていたので戸惑った様子だった。 「エリックの演奏に感動して泣いたんです。」 と私は言った。  お母さんは空気を読んだのか 「メイちゃん。ちょっと、いらっしゃい。」 と言った。エリックのお母さんについていくと、コンサート用のドレスが届いていた。真っ白なドレスと真っ赤なドレスとピンクのドレス。3枚とも用意してくれたんだ。 「どれか着てごらんなさい。」 私は真っ赤なドレスを着てみた。ちょっとだけ大きいけれど鏡に映った自分を見てドキドキした。 「よく似合ってるわ!これを着てピアノ弾いてごらんなさい。きっとエリックたち喜ぶわ。」 エリックのお母さんは私の三つ編みにしている髪をほどき、ゴムでアレンジしてお花の飾りをつけてくれた。  私はワクワクした。エリックのお母さんとピアノの部屋に行くと 「わあ!ステキだね。メイ・・・・」 と、キヨが目を見開いて近寄って来た。 「すごい。お姫様みたいだ!」 とエリックも喜んでくれた。 「さ、このドレスを着たまま、キヨと演奏して聞かせて!」 と、エリックのお母さんは明るく言った。  私は背伸びしてキヨの頬に軽くキッスして耳元に 「キヨ、大好き・・・」 と誰にも聞こえないくらい小さく息の声でささやいた。エリックの演奏に負けてほしくなかった。  キヨと合わせて弾き始めてすぐ、長い間わからなかったエリックとの違いに私は気づいた。  一台のピアノに向かい二人並んで座る。キヨが右手パーツ、私が左手パーツ、まさに二人で一人。キヨは右手だけで演奏するから左手はいつも私の身体を抱きかかえていた。キヨの体と半分重なって演奏するからキヨの体温も鼓動も呼吸も自分の体に伝わってくる。私たちはお互いの息遣いまで共有しながら一つながりの身体になって演奏する。私の弾く音のペダルをキヨが踏み、キヨの『心の歌』を聞きながら、私は私の自主性でリズムを刻む。  その日のキヨのピアノには大人的に言えば『哲学』があった。一音、一音が人生の歩みのように、進むべき高みを目指して響いた。その音たちの物語はあたたかい愛に満ちていた。弾きながらキヨの中に塩崎先生を感じた。どこにいるより誰といるより安心できる大好きな人は先生とキヨだった。どっちでも同じだった。それくらいキヨの心が大きく感じた。  演奏が終わった時、今度はエリックが泣いた。エリックのお母さんは拍手してから 「魔法にかかったみたいよ。世界で一番ステキなノクターンだった。メイちゃんとキヨは世界で一番ステキな恋人たちに見える。」 と言ってくれた。  夕方、エリックのお父さんとも合わせた。エリックのお父さんとは合わせる度毎に、私は大きな新しいエネルギーをもらった。音楽の妙味がどこからあふれてくるのか、具体的な技とコツを繰り返し教えてくれた。  塩崎先生が迎えに来て、キヨが一緒だったので驚いた。帰りの車の中で 「今日のキヨの演奏は先生と同じだった。」 と私は報告した。 「それは大変だ。小学生と同じだなんて・・・もっと一生懸命、練習しないと学校クビになる!」 と先生はふざけた。
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