難しい普通

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難しい普通

 夏休みが近づく。私はピアノに夢中になり過ぎたため、学校と親の間で、入学前に心配されていた普通学級に通学できるかどうか、という問題が再燃していた。 「学力に問題がある訳ではないが、特別支援学級に通って学校でもピアノを弾く時間を確保することが、将来を見据えると本人のためではないか。イジメについても、担任として努力しているが本人の対人関係の難しさもあり簡単に解決できない。」 というのが担任のジン先生の考えらしかった。  父はわかりやすく私に説明してから 「メイはどうしたい?」 と私に聞いた。私はキヨと離れるのは不安だった。キヨがいない空間で知らない先生や子どもたちと生活することを想像すると、もう学校には行けないと思った。 「キヨといっしょがいい。じゃなきゃ学校に行かない。」 と言って泣いた。 「キヨがいないとメイは生きられないのか?そんなにキヨが大事か?」 と父は私に聞いた。私は父に聞かれて、キヨの存在がどれだけ私の支えになっているかという現実に気づく。 「キヨがいないと生きられない。キヨが大事。どんな教室でもキヨといっしょならいい。」 と私は答えた。  父は私を抱っこしてくれた。それから私の目を見て 「メイは大きくなったらキヨのお嫁さんになるのか?」 と聞いた。 「わからない。」 「どうして?キヨがいないと生きられないんじゃないのか?」 私は子どもだったので正直に答えた。 「キヨも好きだけど、塩崎先生も好き。どっちも大好きだから、大きくなってみないとわからない。」 「塩崎先生か。そうか。よかったな。大好きな人がいっぱいいて。」  次の日、学校へ行く途中の車の中で、塩崎先生は 「メイ。学校は何をしに行くところだと思う?」 と私に聞いた。 「わからない」 「そうか。誰も教えてくれなかったんだね。学校は人の話を聞いて返事をする練習に行くところなんだ。先生の話、クラスの子どもたちの話。」 「そうなの?」 私はビックリした。まったく初めて聞いた話だった。 「そうなのさ。もうすぐ夏休みだけど、それまで頑張って先生や友だちの話をよく聞いて、何か聞かれたらすぐ返事をするんだ。それができないと夏休みが終わった後、キヨと違う教室に行って、その練習をしなければならなくなる。そんなのイヤだろう?」 「わかった。がんばって話を聞いて、すぐ返事をする。」  その日から、崖っぷちに立たされた気分で私は先生の話や友だちの話をがんばって聞き、すぐに返事をした。学校にいる間中、そのためだけに神経を集中した。  ある日、国語の授業で、あまんきみこ作『きつねのおきゃくさま』の感想を一人ずつ順番に発表することになった。みんな、いろいろな感想を言った。  エリックは 「時間は心を変える。言葉は心を変える。毎日いっしょに生活する仲間はお互いの心を変えることができる。だから、よく考えて言葉を選ばなければいけないと思います。」 と言った。素晴らしい感想だ。私は、とりあえず返事をすることに気をとられて言葉を選ぶほど、よく考えてない自分に気づく。  私とキヨの席は窓側の一番後ろだったので、最後に順番が回ってきた。キヨが先に感想を言った。 「ひよこは、キツネに食われないように『やさしい、おにいちゃん』『親切なキツネ』『神様みたい』と言って、キツネをうっとりさせて、キツネからもオオカミからも自分の身を守った。本当に怖いのは強そうなオオカミじゃない。か弱いけど悪知恵の働くひよこだ。キツネは、ずる賢いひよこにダマされてあげた。ひよこが大好きだったんだ。ひよこのために死ねるなら幸せだったのさ。たとえキツネらしくない生き方でもね。だから恥ずかしそうに笑って死んだ。だけど『死ぬ』という言葉は、国語の時間に気軽に使っていい言葉じゃない。僕は、その言葉を口にするだけで心がつぶれそうだ。これは大人のための話だ。小学一年生の教科書に載せる話じゃないと僕は思う。」  キヨが話を深読みするのは、いつものことと思った。が、私はキヨの感想を聞いているうちにツラくなって、今まで考えていた自分の感想を冷静に話せない気がした。 「はい。最後はメイだね。感想をお願いします。」 とジン先生に促された時、私はまさに崖っぷちだった。気持ちが高揚して倒れそうだった。 「私は・・・自分がひよこでも、あひるでも、うさぎでも、キツネといっしょに戦って死にます。小さくても弱くても戦う。」 それだけ言うのが、やっとで、私は泣き伏した。キヨやジン先生が何か言ったようでも聞こえなかった。泣き過ぎて、その日は学校から帰るまで、きちんとできなかった。心の中で『どうしよう』と思ったけど、ダメだった。  帰る時、エリックはキヨに言った。 「キヨが言ってる内容は間違ってないけど、間違ってないことなら、いつどんな時に言ってもいいって訳じゃないと僕は思う。正しいことを言っても人を傷つけることだってある。正しい答えより、優しい答えを見つけるようにしないと自分が苦しくなるんだ。」 「エリック。そうだね。本当にそうだ。どうして、そんな大人みたいなこと知ってるの?」 キヨはエリックに尋ねた。 「僕には年の離れた病気のお兄ちゃんがいるんだ。お兄ちゃんと話す時は、とても気を遣うんだ。昨日、お兄ちゃんが夏休みで家に帰って来た。今日はメイに紹介するよ。」  キヨもエリックのお兄ちゃんに会いたいと言ったので、私たちはドキドキしながら、いっしょにエリックの家に着いた。  玄関を入ったところに、『セオ』というエリックのお兄ちゃんは待っていた。私たちを見ると嬉しそうに微笑んで、私の背の高さにしゃがみ込んで私の目をジッと覗き込んだ。セオの瞳はエリックと同じ美しい青い色だった。金髪のまつ毛が長くて、髪は真っすぐ長く肩まで伸ばしていて、鼻がスーッと高くて、体全体から今まで嗅いだことのない不思議な匂いがした。  セオは私の顔をいつまでも見つめていた。エリックは私にも聞こえるように大きな声でキヨに説明した。 「病気だから許してあげて。何もしないから。メイを観察しているんだ。きっとメイの絵を描きたいんだ。気に入ったら、気が済むまで見ていたいんだ。途中でやめさせると叫んだり暴れたりするんだ。」  エリックのお母さんは車の中で、少しもそんな説明をしなかった。どうしてだろうと私は思った。セオが私を見つめている様子を見守るお母さんの目には涙が光っていた。辛くて話せなかったのかもしれない。  私は、ずっと立っているのが疲れたのでセオの手を引いて近くにあったソファーに並んで座った。セオは小さな声でフフフフッと笑った。少しするとセオは口笛を吹きながら、どこかへ行ってしまった。  私たちがバイオリンとピアノの練習をしていると、セオはスケッチブックを持ってやってきた。セオはエリックのお父さんよりも背が高くヒョロヒョロ痩せていたが、おどけた様子でスキップして首を左右に傾けながら私の横まで来るとスケッチブックを見せてくれた。  お人形さんみたいな私の絵が描かれていた。顔は私にそっくりだったけど服は見たこともない不思議なデザインの服だった。昆虫の妖精みたいな服だと思った。私は嬉しかったのでスケッチブックを手にとって、しばらく見つめた。絵を見ていると、セオはエリックに日本語じゃない言葉で何か言った。 「メイ。お兄ちゃんはメイに触ってみたいんだって。触ってもいい?」 「いいよ。」 私は深く考えずに、そう言った。  セオは私の頭の形を両手で熱心に触った。首、肩、胸、背中、お尻、脚、つま先、手の指の先まで、丁寧に、そっと触った。上から下まで3回くらい触った。キヨは嫌な顔をして見ていた。セオはまた、いなくなった。エリックは言った。 「ごめんね。多分、今日だけだと思うから。いつも、すぐ飽きるんだ。きっとメイの体の人形を作って持ってくるよ。」 「絵を描いたり人形を作ったりする学校に行ってるの?」 と私が質問するとエリックは意外なことを言った。 「違うよ。お兄ちゃんはピアニストになりたいんだ。ピアノはものすごく上手だよ。もしかすると世界で一番上手だと僕は思ってる。でも、ピアニストになるのは難しいんだ。気が向いた時に気が向いた曲しか弾かないからさ。人の話を聞けないんだ。耳は聞こえてるけど、自分だけの世界で暮らしてるんだ。」  私は、その話を聞いて、自分もセオと同じ病気なのかと思うと怖くなった。怖くなったけど、似ていると思った。塩崎先生の言う通り 『人の話を聞く練習、すぐに返事をする練習』 を頑張らなければ、セオと同じようになってしまうんだと思った。セオはどうみても病気の人に見えた。  その日は、私たちがエリックの家から帰るまで、もうセオは姿を見せなかった。エリックのお父さんが帰って来て、セオは『神さま』という意味の名前だと言った。『神さま』だから人間が考えるように動かないのは仕方がないのだと言った。『神さま』にしかできないことをすればいい、とも言った。
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