セオ 1

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セオ 1

 次の日、学校でキヨは私がエリックの家に行くことを心配し続けていた。セオが私に何をするかわからないと不安だったのだ。エリックはキヨの心配を予想して 「僕がずっと一緒だから心配しないで。お母さんもいるし。お兄ちゃんは病気だけど頭は悪くないんだ。いろいろ考えてはいる。だから昨日も、メイに触る前に、触っていいかどうか確認しただろ。普通、お兄ちゃんは誰かに興味を示しても次の日には飽きてしまうんだ。忘れるのか飽きるのか、すぐ違うことに興味が移るんだ。」 と説明した。 「わかった。エリックを信じる。僕は大抵の子どもは信じられないけど、エリックは信じられる。」 とキヨは言った。キヨの言葉は、いつもひと言余計だ。私は子どもながらに、その余計な部分にイラッとしたり不安になったりした。  エリックの家に着くと、玄関でセオは私を待っていた。 「メイ!」 と微笑みながら私の顔の高さにしゃがみ、私の目をジッと見た。私は名前を呼ばれたので 「セオ!」 と呼び返した。  子どもと言える年ではない。何を考えているのだろうと思い、 「エリック、セオに何を考えているか聞いて。」 と私は言った。エリックが外国語でセオに尋ねると、セオは何か一生懸命に話した。エリックはセオの話を最後まで聞いてから言った。 「お兄ちゃんはメイがステキな少女だと感じてるらしい。メイともっと仲良くなりたい。自分のピアノを聞いてほしい。本当はいっしょに散歩したり山や川に遊びに行きたいと言ってるよ。」 「いいよ。私もセオのピアノ聞きたい。散歩に行ってもいいし山や川に遊びに行ってもいいよ。」 そう答えるとエリックは少し難しい顔をした。 「メイは本当に、そう思うの?お兄ちゃんがかわいそうだと思って気を遣ってるなら、正直に返事してくれた方がいい。」 と言ったので驚いた。 「正直に返事してる。セオのピアノも聞きたいし、一緒にいろいろなところへ遊びに行くのは楽しいと思ったから。」 「お兄ちゃんの匂いは大丈夫?」 「大丈夫よ。そんなこと気にしてたの?」 「気にするよ。僕は匂いが一番つらいんだ。僕もいつか、同じような匂いになるんじゃないかと思うと気が狂いそうになる。」 エリックの表情を見て、その深刻さを理解した。 「エリック・・・私は気にならない。大丈夫よ。エリックが同じ匂いになっても全然平気。ほら!」 私はセオに抱きついてスースー匂いを嗅いだ。塩崎先生の家の庭にぼうぼう生えているハーブみたいな落ち着く匂いだと思った。  私が急に抱きついたのでセオは驚いたみたいだけど、優しく抱きしめてくれた。セオは顔を紅潮させて微笑み何か言った。 「最高にしあわせ!人生で最高のしあわせ!って言ってる」 エリックが通訳した。  ピアノの部屋に行き、セオはピアノに向かった。セオは私に 「ショパン?」 と聞いた。私はうなずきながら 「ショパン」 と返事した。  セオは『幻想即興曲』を弾いた。兄の練習で何度も聞いていたし、この前、塩崎先生の演奏も聞いたが、セオの音楽は誰が弾くより優しく甘く体の奥をあたためた。技巧に走らず説明的でもなく、ふうわりと私の心を抱きしめて撫でてくれているような、恥ずかしそうな距離感を感じた。強い音も突き刺さるようではなく、様子をみながら弾いてくれている優しさを感じた。  セオは人の話を聞けない、自分だけの世界に住んでいる、と昨日エリックは言ったけれど、私には、そうは思えなかった。  私はセオの隣に座り、ショパン『ノクターン8番 』Op. 27-2の左手部分を弾いた。セオと一緒に弾いてみたかった。セオは楽譜を見なくてもスムーズに右手を弾き始めた。  ドキッとした。弾き始めから心の底まで優しい美しさが届いた。1ページも進まないうちに私は涙がポロポロあふれた。涙で鍵盤が潤んで見えたけれどセオの美しさに合わせて必死に演奏した。ピアノなのにセオの歌声みたいになめらかな演奏が終わった時、私は思わずセオにしがみついて泣いた。声をあげて号泣した。セオは私を抱きしめてくれた。  ノクターンの1番、2番、3番、20番と私が弾ける曲をセオと連弾した。一曲終わるたびに私は泣いた。20番が終わった時、私はセオに抱きついて泣いたまま、彼から離れたくなかった。セオもずっと私を抱きしめてくれていた。どうすればいいか自分でもわからない感情があふれ、一度泣きやんでも、また泣きたくなり困った。  セオは私を抱き上げてピアノの椅子から離れ、ソファーに移動して彼の隣に座らせた。セオは私の肩を抱き髪を撫でてくれた。  エリックのお母さんが紅茶とケーキを運んで来た。私がセオに撫でられてメソメソしているのを見て 「どうしたのメイちゃん?」 と聞いた。 「セオのそばにいたいの・・・」 と私は言った。 「まあ・・・」 お母さんは言葉に詰まってエリックを見た。 「メイはお兄ちゃんとピアノの連弾をして感動してるんだ。ピアノに感動して自分の気持がよくわからなくなったんだ。」  エリックのお母さんは初め不思議そうな顔をしていたが、やがて微笑んで言った。 「メイちゃん。ケーキを食べたら私にもセオとの連弾、聞かせて。この前、キヨと弾いた曲がいいわ。」 私はまだボーッとしていた。セオがケーキを小さく切ってフォークで私の口に運んでくれたので私はパクッと食べた。美味しかった。セオは笑って楽しそうに、また私にケーキを食べさせた。  エリックのお母さんとエリックは何か小さな声で話していた。ケーキをすっかり食べて紅茶を飲んだら、少し気持ちが明るくなった。私はセオとピアノに向かいキヨと弾いた『ノクターン1番 』を連弾し始めた。初めに弾いた時とセオは違う雰囲気の演奏をしてきた。セオの言葉は外国語でわからないけれど、ピアノの演奏の仕方では彼が何を言いたのか私にはわかった。彼は私をピアノで讃えてくれた。未来は輝いてるよ、力強く歩もう、世界は何て素晴らしいんだ!とセオのピアノは言った。私もピアノでそれに答えた。  演奏が終わって、私はもう泣かなかった。フフフッと笑ってセオの顔を見上げて抱きついた。セオは私を抱き上げて部屋の広い空間まで行きクルクル回った。キャハハハッと私は喜んだ。セオも楽しそうに笑った。  それからセオと私とエリックとエリックのお母さんもいっしょに、歩いて行ける山の公園に行った。行く途中いろいろ話をした。  セオは17歳でピアノの学校に行っている。セオは絵と歌とダンスも得意だという。けれどいつも一人で行動していて誰も友だちはいないはず、とお母さんは言った。 「セオがケーキをカットしてメイちゃんに食べさせたのは本当に驚いた。セオが誰かのために優しくできるって初めて知った。ドキドキしたわ。きっとメイちゃんが可愛くてたまらないのね。ああ・・キヨが見ていたらどうしたかしら。これから先、心配だわ。」 「大丈夫。キヨは私に言ったの。メイは誰を好きになっても自由だよって。エリックを好きになってもいいって。心に赤い花を咲かせたり、白い花を咲かせたり、いろんなお花をいっぱい咲かせたらいいって。」  私はそこまでは声に出して言った。その続きは胸の中で呟いた。 『私の心はキヨの箱庭に住んでいる。キヨの箱庭で花を咲かせるだけ。キヨの箱庭の神さまに守られている。』  エリックのお母さんは何も返事しなかった。エリックも何も言わなかった。セオは、ものすごく上手に『ひつじのショーン』のテーマ曲の口笛を吹いた。私は口笛に合わせて歌いながら踊りながら歩いた。セオも楽しいダンスをした。私ははしゃいでキャーキャー叫んだ。セオも笑った。エリックも途中から一緒に歌って踊った。みんな、楽しくて嬉しくて飛んだり走ったり踊ったりしながら大笑いした。エリックのお母さんも笑顔になって声を出して笑った。
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