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セオ 3
次の日は朝から暑かった。塩崎先生とキヨが迎えに来て、兄のレンもいっしょにエリックの家に行った。
玄関でエリックのお母さんは私たちに言った。
「今日はセオに会わない方がいい。体調が良くないの。」
「寝てるの?」
私はお母さんに尋ねた。お母さんは何も答えなかった。エリックは微妙な表情をした。
私はエリックの耳元にささやいた。
「お願い。セオの部屋に連れて行って。」
みんなピアノの部屋に通され、兄のレンはベーゼンドルファーのグランドピアノを楽しそうに弾き始めた。ピアノの部屋は冷房で寒いくらいに冷やされていた。私は黙ってそこを出てエリックについて二階の奥のセオの部屋を教えてもらった。部屋の前まで行くとエリックは小さな声で言った。
「僕は入れない。お兄ちゃんの匂い、苦手なんだ。」
私はドアをノックした。返事はなかった。エリックは走っていなくなった。ドアに鍵はかかっていなかった。私はドアを開けて
「セオ・・・」
と呼んだ。部屋に入ると机に向かって何かしていたセオは驚いたように私を見た。
「メイ・・・」
セオは私の人形を作っていた。身長が80センチくらいある大きな人形だった。顔はもうできていた。髪はまだなかった。体と脚はできていた。今は手を作っているところだった。私は机の上の人形の手の隣に手を並べてみた。
「サンキュー、メイ・・・」
セオは私を見て泣きそうな顔で微笑んだ。
セオの部屋も冷房は効いていた。空気清浄機もあった。それでもセオの体臭はこもっていた。ツンと頭の奥まで響くような匂い。エリックが嫌がるので部屋から出ないんだと思った。私はセオの匂いはイヤじゃなかった。その匂いに私は憧れさえ感じた。独特の心地よさがあった。不協和音が奇妙に神経をくすぐるように、その匂いにフェロモン的な何かを感じていたのかもしれない。
私は人形を作るセオをウットリ眺めた。私が戻らないのを心配してキヨが呼びに来た。キヨはセオの部屋のドアを開けた時、思いっきりイヤな顔をして手で鼻を押さえた。
「私はここにいたい。みんな帰ってもいいわ。考えてみて!キヨ。もしキヨがセオだったら、どんな気持ち? 私はセオの匂いが好きなの。我慢してるんじゃないの。本当よ。」
「わかった。僕、帰るよ。エリックとレンといっしょにパパがホテルのプールに連れて行ってくれるって!メイは行かなくていいの?」
「行かない。どうせプール行っても泳げないし。怖いから行きたくない。セオと人形作ってる。セオとピアノ弾いてる。」
「じゃ、帰りに迎えに寄るよ。」
キヨはバタンとドアを閉めた。
セオと人形の手を両方とも作ったら、午後2時を過ぎていた。お腹がペコペコになって、セオと一緒に下に降りたら食卓の上にサンドイッチが置いてあった。メモ書きがあってセオは冷蔵庫からサラダとスイカを出した。冷たいお茶もコップに入れてくれた。誰もいなかった。
セオと2人で見つめ合って食べた。セオは時々、楽しい曲を口笛で吹いてくれた。どうしてセオのお母さんまでいないのか不思議に思った。広い家の中に私とセオと2人だけだった。
食事を終えてからセオとピアノを弾く。この前、いっしょに連弾したショパンのノクターンの1番を弾き始めて、少し進んでは、私のパートである左手部分の演奏方法を弾き直しては細かく教えてくれた。
ほんの少しリズムの刻み方を変えただけで、まるで違う曲のように空気の色が変わる。それまで藍色の無風の夜だった部屋に、明るい月光が差し込み、優しく夜風が吹いて青紫の空気が香り立つ。
ある程度、細かく教えてから、メロディーのまとまりごとの盛り上がりや静けさを歌うように教えてくれる。まるで童話の世界の王子さまとお姫さまがメロディーやハーモニーとなって出会い、語り合い、触れ合い、しめやかに物語は広がっていくようだ。
その後、セオは私に右手パートを練習させた。セオが1オクターブ高いところを弾き、後を追って繰り返す。何度もゆっくり繰り返してから少しづつ長く続ける。とても面白かったけれど子どもだった私は疲れて走り回りたくなった。セオの手を引いて外へ出る。
どこへ行く宛てもなかったけれど遠くに緑の木々が生い茂っているのを見つけ、そこまで走った。初めての知らない公園だった。大きな池があり、池には鴨が泳いでいた。池の周辺を歩いていると大型犬が突然セオに吠えかかった。知らないおばあさんがロープの端を持っていたけど、ロープは長くて私たちは犬にかまれそうになった。セオは私を抱き上げて池に入った。私は必死にセオにしがみついた。犬も池に入りかけて、そのおばあさんは大声で何か叫んだ。通りかかった誰かが犬のロープを強く引いてくれたので私たちは犬にかまれずに済んだ。
セオも私もズブ濡れになった。池は見た目より深く、セオの腰から下は池の泥やヘドロでドロドロになっていた。私たちは走って家に戻った。汚れた服を脱ぎ捨てて二人でシャワーを浴びた。セオは明るく楽しい歌を歌いながら私の体を優しく洗ってくれた。
シャワーを終えて裸のまま浴室のドアを開けるとキヨがいた。
「メイ・・・・」
と泣きそうな顔をしているので
「どうしたの?キヨ。何かあったの?」
と聞いた。
「メイこそ、どうしてセオとシャワーしてるんだ?」
「犬にかまれそうになったの。セオと池に逃げたら泥だらけになったの。」
「だからって、セオといっしょにシャワーするなんてダメだよ。」
「どうして?セオがいなかったら私、犬に食べられてしまったかもしれないのに。セオが助けてくれたのよ。」
「そういうことじゃない!」
キヨは怒った声で叫ぶと、走って行ってしまった。
セオのお母さんは、キヨやエリックたちといっしょにプールに行ってきたらしかった。エリックは私に耳打ちした。
「セオの匂いが一番苦手なのは、お母さんなんだ。」
みんなでエリックの家で夕食を食べてから帰ることになった。
「メイちゃん、セオの部屋で二人で仲良く食べてくれる?」
とお母さんが言った。
「はい。」
私はセオと2人で『アラジン』のアニメを見ながらカレーライスを食べた。大きくなったらアラジンのヒロインのジャスミンみたいになって誰かとこんな恋をしたいと思った。その時、私は恋の相手を塩崎先生やキヨに限定していない自分を意識していた。私はセオが好きになりかかっていた。みんなが、あまりにセオを隔離することに強く反発を感じていた。ヒドイと思った。そんな待遇を受け続けたら誰だって気が狂いそうになると思った。セオがかわいそうだった。セオはこんなに素敵なのに。そう思うと私こそセオのために選ばれたお姫様みたいに感じたのだ。
「メイ、そろそろ帰るよー」
と塩崎先生が階段の下から呼ぶ声が聞こえた。
「はーい!」
と返事をしてから、私は椅子に腰かけていたセオの頬にキッスした。セオは微笑んで私の頬にキッスのお返しをくれた。
帰りの車の中で私は眠ってしまった。目が覚めたら自分の家の自分のベッドだった。もう次の日の朝になっていた。
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