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突然の演奏会
〇〇ホテルに着くとセオのお父さんが待っていて、私に言った。
「メイちゃん、今日は練習だけど本番だ。温泉ホテルより、もっとたくさんのお客さんがいるところで演奏するよ。セオと二人の連弾もしたいかい?」
「したい。ノクターン1番をセオと連弾する。」
私はワクワクした。
セオはホテルでスーツを借りた。カッコよかった。王子様みたいだった。スーツを借りた時、そこの店の人がセオにオーデコロンを振りかけた。セオの体臭が、ものすごくいい香りに変化した。私はその香りだけでウットリしてセオをクンクンした。セオの体にまとわりついて、お店の人に笑われた。
セオのお父さんが会員になっている、社会奉仕団体の懇親会の席で、急遽、余興的にピアノやバイオリンの演奏を聞いてもらうことにしたらしかった。
あっという間に本番が始まった。ホテルのラウンジという広い場所の真ん中に真っ赤なグランドピアノがあって、そこに私はセオとセオのお父さんと並んで紹介された。
初めはセオの伴奏でセオのお父さんはファリャ『スペイン舞曲1番』を演奏した。お父さんの演奏は大迫力で、私の心はそのメロディーに乗って空中を飛び回った。セオのお父さんはやっぱり凄い。お客さんは、みんな気持ち良さそうに夢見るような表情で演奏を楽しんでいる。
次は私とセオのショパン『ノクターン1番』だった。セオのお父さんは
「私の愛する息子セオと、セオの小さな恋人メイの息の合った連弾」と紹介した。私はワクワクしながらも緊張していた。みんなにお辞儀をして椅子に座った時、セオは私の耳にルルルルル・・・とメロディーを歌った。セオの熱い息と甘い声でテンポを確認できたことで、私の心はセオと2人の世界に浸りきった。セオがメロディーを弾き始め、私は昨日から練習した通り丁寧に演奏できた。弾き終えた時、大きな拍手をもらえた。セオは私の頬にキッスしてくれた。
次は私がセオのお父さんとラフマニノフ『ヴォカリーズ』を演奏した。
休憩になった。控室に戻り、セオのお父さんは
「メイちゃん、堂々としていて素晴らしいよ。」
とほめてくれた。セオは私を高く抱き上げて遊んでくれた。私の父も来て
「メイ、素敵だったよ。母さんやレンにも聞かせてやりたかった。」
と言った。
第二部はセオのピアノで始まった。リスト『ラ・カンパネラ』だ。続けて、セオとお父さんのバイオリンとの合奏、サラサーテ『チゴイネルワイゼン』が始まる。私は聞き惚れて全身がハチミツみたいに甘くとろける。
ウットリと夢見心地になっていると、いつの間にか曲が終わり
「次は未来のピアニスト、メイちゃん、1人で何か演奏してくれるかな?」
と、セオのお父さんが私を呼んだ。私がお父さんのところまで行くとマイクを渡された。お父さんは小さな声で
「自分で曲を紹介して、曲の説明をしてごらん。」
と言った。私は考える余裕がなかったので
「ベートーベンの『エリーゼのために』を弾きます。でも今日は大好きなセオのために弾きます。よろしくお願いします。」
と言った。
私は自分でショパンのノクターン風にアレンジした『セオのために』を弾いた。その頃から私はショパンが大好きで、どの曲もショパン風にアレンジすると、しっくり落ち着くのだった。演奏が終わった時、セオは拍手の渦の中で私を高く抱き上げてクルクルしてくれた。嬉しかった。
アンコール、アンコールという声がかかる。私はセオとショパン『ノクターン8番』を連弾した。
演奏が終わった時、キヨが花束を持って来て、なぜかセオに手渡した。キヨはセオと握手して目に涙を浮かべていた。私の顔は見ようともしなかった。ショックだった。
塩崎先生が私に花束をくれた。先生は私を抱きしめて
「メイ、素晴らしかったよ。よく頑張ったな。」
と頬と頬をつけてくれた。
「先生。ありがとう。」
私は嬉しかったけど、キヨの涙を見てしまったので泣きそうだった。
演奏会が終わり、ホテルのレストランに行った。キヨと塩崎先生も来た。私はキヨに
「ごめんね。」
と言った。キヨは怒った顔して泣きそうになっていた。
「ごめんね。」
と、私はもう一回、キヨの前に立って言った。キヨは何も言わずにうつむいていた。
「キヨ・・・」
私はキヨを見つめ続けた。
塩崎先生が、他の大人たちに
「放っておきましょう。夫婦喧嘩みたいなものだから。」
と言った。
みんなは席について、お酒で乾杯してワイワイおしゃべりしていた。いつまでたってもキヨが何も言わないので、私はキヨの前で泣き出してしまった。
塩崎先生が、そばに来た。
「キヨ、ごめんね・・・」
と、謝りながら泣き続けている私に
「メイはなぜ謝ってるんだ?何も悪いコトしてないじゃないか。頑張って立派な演奏ができたんだ。謝ることはないだろう?」
と言った。
「キヨを悲しませた。キヨをイヤな気持ちにさせた。だから、ごめんねって思うから・・・」
私は心から、そう思った。キヨの気持は想像できた。セオの気持を考えると何となく仕方がない成り行きだったけど、キヨがどんなに不安だったか想像できた。
キヨは黙り込んでいた。塩崎先生は言った。
「キヨはメイを許さないんだな。そうか。それならキヨに遠慮なく、今からメイは僕の恋人にしちゃおう。さ、メイ、もうキヨのことは忘れて、僕といっしょにステキな夜を楽しもう!」
先生は私を抱き上げた。
私は泣き叫んだ。
「先生、やめて!放して!」
私は先生の手から逃れて、キヨに抱きついた。
「キヨ、何にも言わなくてもいい。わかってるから。大好きだから。キヨが一番大好きだから。キヨの気持わかるから。」
私はキヨを抱きしめて泣いた。
大人になってから思い返せば、キヨは母親がいないため、幼い私の中に、女の子として好きだという気持ちと同時に、女性性というのか母性のような愛を求め、男親にはない柔らかさや安らぎを感じていたのだ。
私がキヨを置き去りにして、セオに寄り添うことは、キヨにとって頭では理解できても心がそれを認めきれないのだった。そのキヨの不安を、私は感覚的に察していた。心が凍り付いたキヨの寂しさを我がことのように感じた私は、その時、自分が最優先ですべきことは、キヨを守ることだと体が反応したようにも思う。
その晩、私は父と先生に頼んで、キヨといっしょに寝た。キヨのベッドでキヨにしがみついて、いっしょに寝た。キヨは眠るまで一言も口を開かなかった。
朝方、私を抱きしめて
「メイ、大好きだよ。」
と、キヨが言ったので、私は嬉しくて泣いた。キヨも泣いた。
泣きやんでから二人で、外に箱庭を見に行った。箱庭の真ん中に発泡スチロールで作った白い小さな教会があった。十字架の部分だけプラスチックの細い棒で作られていた。
「これ、何で作ったの?」
「あててごらん!」
「綿棒?」
「当り!なんでわかったの?」
「だってキヨ、綿棒大好きでしょ・・・」
ふふふふっ ハハハハッ 私たちは仲直りして、箱庭の教会にお祈りした。キヨは
「神さま。もう僕がメイを困らせないようにお守りください。」
とお祈りした。
「神さま。キヨのしあわせをお守りください。」
と私はお祈りした。
朝陽を浴びた箱庭の苔や草花は朝露を宿しキラキラ光っていた。私は、その時、一つの真実に目覚めた。キヨが幸せな気持ちでなければ自分も幸せではない、という真実。
その真実は、その後、真実であり続けるために、私とキヨに様々な試練を課す。
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