記憶に残る5月

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記憶に残る5月

 5年生のゴールデンウィーク。  国に帰っているエリックのお父さんに変わって、私とセオとエリックの三人で『トリオ・ル・ブルジョン』の活動が再開され、ゴールデンウィークの間、私たちは主に沖縄周辺のホテルで過ごした。  塩崎先生は私を心配して、自分も一緒にそこへ行くべきかと悩んでくれたが、先生は他にすることがあったので、先生の代わりにキヨが同行してくれることになった。  塩崎先生は、その前の年の秋、ミンジェと一緒に出場した某ピアノコンクールの成人部門で優勝し、今度はもっと大きな国際ピアノコンクールに向けて猛練習をしていた。先生の気迫は凄まじく、この半年で顔つきや体型まで変化していた。先生は毎朝毎晩、体幹トレーニングと称してキヨとエリックと三人で何かキツい筋トレをしているらしかった。その成果が表れ、先生もキヨもエリックも、少年漫画のヒーローみたいな精悍な顔立ちになっていた。  『トリオ・ル・ブルジョン』の司会はエリックが務めた。お父さんとは違うけれど、エリックはもともと人並外れた言語能力を持っていたので、日本語と英語、フランス語、中国語で簡単な解説をした。エリックにとって外国語をマスターすることは楽しい趣味程度の苦痛を伴わない学習らしく、暇さえあれば他の言語を学習していた。  演奏会は、エリックのバイオリンはお父さんの演奏に比べて引けを取らなかったし、セオは天才の領域に達していたので、お客さんは常に大満足してくれた。私の存在意義は、相変わらず彼らに花を添える程度の役割だったが、今回の公演では、予想外の評価もいただけた。 「メイのピアノは語りかけてくる。伝えたい思いが丁寧に語られている。」 「メイのピアノは不思議な森を描き出し、そこを彷徨う楽しみは至福の快感をもたらしてくれる。」  ホテルでは、セオとエリックで一部屋、私とキヨが一部屋を借りて過ごした。夜しか公演がない日は、セオがレンタカーを借りて島をドライブしたり、海に潜ったり泳いだり水族館に行ったりした。0d14d8e7-e204-419f-bb7a-30c08e01fc40  私たちは本当に楽しく、何の問題もなく過ごした。  ゴールデンウィークが終わり学校が始まった時には、何だか浦島太郎の気分で現実になじめないほど、沖縄の時間は素晴らしいものだった。  そんなリゾート気分がまだ抜け切らない5月中旬のこと。2時間目の算数の時間だった。急に塩崎先生が現れてチョ先生に何か耳打ちした。私とキヨとエリックの3人は塩崎先生といっしょに警察署に向かった。  エリックのお母さんが亡くなったのだ。高層ビルから転落したと聞かされた。飛び降り自殺なのか事故なのか、まだわからないと塩崎先生は言った。まもなくセオも到着するとのことだった。  警察では身内が遺体の確認をすることになっているらしかったが、塩崎先生はエリックに 「無理することはない。セオが着いてから二人で相談して決めなさい。」 と言った。  警察署についた時、エリックは警察官の説明を聞いて 「僕は母を確認します。」 と迷いなく答えた。私とキヨと先生は、お互いに目も見合わせずエリックの後姿を見送った。エリックの心の中を想像した。 「エリック・・・お母さんを愛していたんだな・・・」 と、キヨは声変わりしかけたガサガサ声で泣きそうに呟いた。  エリックは戻って来なかった。そのうちセオも到着し、エリックがいるはずの、お母さんの元へ向かった。  昼頃、ようやく二人は戻ってきた。エリックは泣きはらしたような目をしていた。セオは厳しい表情をしていたが、落ち着いた声で話した。 「みんな、ありがとう。父さんには知らせたけど、もう他人だから関係ないと言った。このために日本には来ないと言った。もし、僕らでお葬式をするならお金は出すから、決まったら知らせてくれと言った。塩崎先生、やっぱりお葬式した方がいいですよね?」 「お葬式なんかしなくていい・・・母さんは・・・自分勝手にいなくなったんだから。それでなくても、みんなに迷惑かけてるんだ。もう、放っておけばいい。警察で処理してもらえばそれでいいじゃないか。」 エリックは、吐き捨てるように言った。  私は、エリックのお母さんの寂しさや辛さを身体中で思った。私は、エリックの部屋でエリックに抱きしめられた時間を思い出した。  自分の気持ちを、どう説明すればいいのか混乱する中で、私はエリックに歩み寄り、そっと彼の体を抱きしめて言った。 「エリック・・・私・・・エリックに抱きしめられた時、すごく嬉しかった。エリックだって嬉しかったでしょう? 私たち二人ともキヨを裏切っていたのに、いけないことだとわかってても、寂しい時のぬくもりって、どうしようもなく大切だわ。もう、お母さんを許してあげて。お母さん、寂しかったのよ。優しくしてくれる人に甘えたかった。それはエリックが一番、わかっているはず。エリックだって・・・・」 「メイ・・・」 エリックは私をきつく抱きしめて号泣した。  塩崎先生の勤務するR学園はカトリック系の学校だった。学園内にある礼拝堂で、エリックのお母さんの葬儀が行われた。セオとエリックの他は、塩崎先生とキヨ、私と私の両親、チョ先生だけが参列した。  私はお別れの言葉を手紙に書いて行き、読み上げた。 「おばさんは私の髪をアレンジしてくれました。私にドレスを買ってくれました。私とキヨを誰より素敵な恋人って言ってくれました。いっぱいいっぱい優しくしてくれました。私が大人だったら、もっとたくさん、いろいろな話を聞かせてもらえたのに。おばさんが寂しい時、なにもできなかった自分が残念です。ごめんなさい・・・」    私が泣いて手紙を読み終えた時、塩崎先生は私を抱きしめてくれた。 「メイ。メイは謝ることない。謝る気持ちは美しいけど・・・メイが謝るくらいなら、僕ら大人こそ、本当はもっと何かできたはずなんだ。」 塩崎先生は私を抱きしめて、私と一緒に泣いてくれた。  その夜、私の家で、みんなで夕食した。セオと大人たちは、遺骨をどうするか、お墓はどうするか等の話をしていた。エリックのお母さんのご両親はセオに任せると言ったらしいが、セオは困っていた。  大人たちが熱心に相談している中、キヨとエリックは次々に料理を作っていた。ホタテと水菜とトマトのカルパッチョとか、厚焼き玉子とか、サイコロステーキとか。私も台所に手伝いに行った。 「メイは向こうで、パパの話をよく聞いておいて。パパが変なことを言い出したら止めるのはメイしかいないんだから。」 と、キヨは言った。 「変なことって?」 「パパは今、コンクールに向けて大事な時期なんだ。だから、思い付きで何か変わったことを言い出したりしないか心配なんだ。」  私はキヨの言おうとしていることを何となく察知した。エリックは私に言った。 「メイが葬儀で母さんにお別れを言ってくれた時、先生がメイを抱きしめた。僕はとても感動した。メイのお父さんもお母さんもいるのに、メイは堂々とお別れの手紙を読んで、先生は堂々とメイを抱きしめた。どうしたって、それはメイのお母さんやお父さんの役目ではなく、塩崎先生の役目だった。僕だってセオだって、メイを抱きしめたかった。きっとキヨだって同じだった。でも、あの場で、誰にも遠慮なく思いっきりメイを抱きしめても不自然じゃないのは塩崎先生しかいないんだ。そして、先生を、そんな気持ちにさせるのはメイだけだ。メイと先生は特別なんだ。家族でもあり、先生と生徒でもあり、恋人でもあり、でも、そのどれでもなく、もっと深い宇宙の奥でブラックホールみたいな神秘で繋がってる。そうだよね、キヨ。」    キヨは聞いてるような聞いてないようなふうにサラダをきれいに皿に盛り付けていたが、エリックが『そうだよね、キヨ』と言ったので顔を上げて、私を見て微笑みかけた。  それからサラダに盛り付けしてたトマトのひとかけらをエリックの口に放り込みながら優しい口調でエリックを励ますように語った。 「そうだね。エリックの言う通りだよ。でもね。エリック。僕らも同じなんだ。僕らも、遠慮なくメイやパパやメイの母さんや父さんと宇宙の奥で繋がったらいい。寂しいとか、イライラするとか、それより難しい感情とか、言葉にできない絡まった神経とか、なんでも僕らは共有していいんだ。メイを抱きしめてもいい。もっと、わかりやすく言えば、本気で愛し合っていいんだ。本気でお互いの宇宙を尊敬して向き合ったら、力をもらえる。力を送れる。セックス以外は何でもしたらいい。」  私は驚いたけど、驚き過ぎて笑った。 「ははははははっ!あっはははははは・・・キヨ最高!はははははっ・・」  エリックはポロポロッと涙を流したが、台所の水道の水をダーッと出してコップでガブガブ水を飲み、ついでにザバザバ顔を洗うとキヨが新しいタオルをポンとエリックに手渡した。  キヨはエリックに言った。 「メイの兄ちゃんのレンのこと、さっき名前出すの忘れてたけど。レンは凄いよ。ピアノじゃ世界一目指せないと思ったから勉強してるんだ。何をやらかそうとしてるか、わかったもんじゃない。アインシュタインの相対性理論をひっくり返すつもりかもしれない。」 「キヨ!僕はその前に腹ペコなんだ。ステーキ焼いて・・・」 レンが塾から戻って来てキヨに甘えた。  最近レンは、キヨやエリックにいろいろな話しを聞かせるのを楽しみにしている。相対性理論とか、非ユークリッド幾何学とか、かじり知った話を解説して彼らの知的好奇心に油を注いでいる。  特にエリックが来てから、レンは、兄貴ぶって難しそうな話しを楽しく解説する自分に酔いしれているらしかった。私が学校に入る前に、毎日、学校ごっこをしてくれた事を思い出す。  そんな人間関係の中で、メキメキと成長して中核的存在になりつつあるのは、他でもないキヨだった。キヨは私の母にさえ命令するほど、いろいろ勉強し、何でもやっていた。  料理に関してはもちろん、掃除や車や電化製品や、生活する上で必要な知識を幅広く知っていたし実践できていた。母の車のウォシャ液を注ぎ足したりワイパーを交換した。タイヤ交換して空気圧の調整までした。  それ以上に私を安心させ、同時に不安にもさせるのは、深く広い慈愛に満ちたキヨの心だった。  塩崎先生に恋する私の気持ちさえ、丸ごと愛して支えてくれるようなキヨの大きな愛に、私は溺れていた。溺れて窒息しそうだった。キヨがどんどん私の中で膨らんで、私はもう破裂しそうになっていた。キヨが側にいてくれたら怖いものなしだけど、もし、キヨがいなくなったら、私は本当に生きていけないのではないかという思いは日に日に強まるばかりだった。  
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