納骨まで

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納骨まで

 エリックのお母さんの遺骨は市内のビルの納骨堂に収めることになった。納骨の時、エリックのお母さんの両親と、お母さんの妹さんが日本に来ることになった。  6月の初め、天気のいい土曜日。私とキヨとエリックは塩崎先生の車で空港に向かっていた。エリックのお母さんの両親と妹、それにセオも同じ時刻に到着し、空港からはセオがレンタカーを借りて、外国から来た親族を載せ移動する予定だった。  エリックは、そのことで心配をしていた。セオのお母さんは、セオの体臭が苦手だった。エリックも同じ体臭になっている。エリックは空港に着くまでの間、そのことが気がかりで他のことなど考えられないのだった。 「わかったよ。ご両親と妹さんは、僕の車に乗っていただこう。セオはまだ運転に不慣れだから、と言えばいい。それで子どもグループはセオの借りるレンタカーで帰ればいい。それで安心だろう?」 と先生が提案し、エリックは満足した。  ところが空港に降り立った、エリックのお母さんのご両親、つまりエリックやセオの祖父母は、初めから非常に興奮していて、しかもエリックを敵視していた。 『マリアを死ぬほどツラい立場に追い込んだのはお前だろう。』 みたいなことをエリックに向かって英語でまくし立てた。お母さんの妹という女性も 『いつもそばにいてマリアの気持ちを誰よりもわかっていたはずのエリックが、マリアが離婚した時、なぜ一緒についていてくれなかったのか?』 とエリックに攻め寄った。 『エリックに悪知恵をつけさせたのはお前だな?』 と塩崎先生まで責められた。 「Be quiet!《黙れ》Tone it down.《静かにして》」 と、到着ロビーから走って来たセオが叫んだ。  私たちは空港の人通りが少ない廊下の端に移動した。セオは彼らに、様々な事情を説明した。どんな風に説明したのか日常会話程度の英語しか話せない私には十分には理解できなかったが、セオの熱心な説明で、セオの両親と妹は明らかに表情を変えた。  彼らは涙を流し、エリックと抱き合い、私をも抱きしめて 「Thank you May!」 と言った。  その一方で、セオとエリックの体臭を、彼らがあまりよく感じていないということもわかった。  塩崎先生は、 『宿泊予約しているホテルまで僕の車でお送りいたします。お疲れでしょうから、少しゆっくりなさって、よろしければ夕食の時、またご一緒しましょう。』 と英語で言った。  先生とエリックの祖父母たちが去った後、私たちは空港内のラーメン屋に入った。セオは北海道のラーメンを気に入っている。だが店内にいた他の客はセオとエリックの体臭に顔を歪めた。お店の人まで明らかにイヤな顔をした。セオは軽く笑って 「Excuse me・・」 と言って、エリックの肩を抱き店を出た。キヨが小さくチッ!と舌打ちしたので私はキヨの脇腹を小突いた。  セオは予約していたレンタカーを借りた。真っ直ぐ高速道路で家に戻るのもつまらないので、どこかドライブしようという話になった。近くの湖まで車を走らせると、湖のほとりに外で食事できるオシャレなカフェがあった。天気が良かったので、私たちはそこで昼食することにした。なんとメニューにはラーメンもあった。  セオはラーメンを食べながら 「まったく、この体臭!なんとかならないかな。レンは頭がいいから、僕らの体臭を消す方法、考えてくれないかな・・・」 と楽しそうに笑いながら言った。 「その前に・・・」 と、キヨは真面目な顔でレンゲでラーメンの汁をすすりながら言った。 「もっと美味いラーメン、僕が作ってみせるよ。そうすれば、タダでいくらでもラーメン食べられるだろう?」 セオは喜んで叫んだ。 「さすがキヨ!ホント・・・キヨ最高だな。何でも自分でやっちゃおうって僕には考えられない発想だ。ところでキヨ、最近、ピアノはどうなの?」 「キヨのピアノはヤバいよ・・・」 とエリックが答えた。 「ヤバい?・・・どうヤバいんだ?」 セオは興味津々に、みんなの顔を覗き込む。  キヨは様々な理由で忙しくピアノを練習する時間を見つけられないなか、朝、早起きして練習したり、学校で昼休みに音楽室で練習したり、私の家に着いてから少し練習したりしながら、先生が夜、ピアノの練習をする時、サポートとして先生の隣のピアノに座っていることが多くなっていた。  サポートが何をするかと言えば、運指を考えたり、流れで不自然なところを指摘したり、まったく違った感覚で演奏してみせたり、考えつく限りのサポートをする。  コンクールを目指している先生の肩に力が入り過ぎている全体的な姿勢に、冷たい水を浴びせたり甘い紅茶を差し入れたりする役目。それがピアノでできるなら、キヨがコンクールに出た方がいいじゃないか、と人は思うかもしれないが、キヨはコンクールには出ない。キヨは超一流のサポーターであることを誇りにしている。  キヨは幼い頃から、メロディーを奏でさせたら右に出るものはいない、と私は思っていた。キヨの奏でるショパンのノクターン1番など、初めの3小節だけで彼が天才であることを表現してしまう。キヨの音楽は努力とは関係のない天性の美で奏でられる。キヨが演奏すると、どんなにつまらない曲も、普段は嫌いな曲さえも、ウットリと聴き入ってしまう。  私はなぜかベートーベンやモーツアルトがひどく苦手で、彼らの曲を練習しようと思うと蕁麻疹が出るくらい嫌いだった。言い方を変えれば、ショパン以外の誰の曲も弾きたくないくらいショパン一辺倒だった。  理由はわからない。ショパンは子どもが弾くには難しい曲ばかりだが、難しいかどうかより、弾きたいかどうか、が私には最優先事項だった。技巧的な訓練が目的でピアノを弾いている訳ではない。ハッキリ言えば、ウットリできないならピアノを弾く意味など何もないと思っていた。  それなのに、キヨが弾いてくれると、あんなに暇でつまらないモーツアルトが何故か美しい蝶のようにヒラヒラと私の胸に舞い踊る。キヨが弾いてくれると、あんなに威圧的でふんぞり返ったベートーヴェンが何故かあたたかく私を抱きしめる。 「だって、メイがそう感じるように僕はピアノを弾いているんだから。」 と、あっさりキヨは言ってのける。  話を戻す。ラーメンをすすりながら 「キヨのピアノはヤバいよ・・・」 とエリックが答え 「ヤバい?・・・どうヤバいんだ?」 セオは興味津々に、みんなの顔を覗き込むと、エリックは残り少なくなっていた麺をすべて食べ終えて、空を見渡し眩しそうに目を細めて言った。 「もしキヨに出会わなかったら、僕は自分が天才だと勘違いするところだった。自分の才能を鼻にかけた嫌な奴になってるところだった。」  私は大きな体の外国人の青年と少年に挟まれた蟻のような自分を可笑しく思いながらエリックに言った。 「エリック、キヨに出会わなければ良かったね。自分が天才だと信じて自分の才能に誇りを持って生きていけたら、その方が絶対、幸せだよ。」 ハハハハッ あっはっはっは・・・みんな笑った。それからエリックは私に優しく微笑みかけて、こんなことを言った。 「キヨやメイに出会わなかったら・・・僕が今どうなっていたか想像できない。セオだってメイに出会ってなかったら・・・どうしていただろう。キヨもメイに出会ってなければ・・・どんなキヨになってただろう。誰にもそれはわからない。でも、誰が誰に出会わなくても少しも変わらない、どうにもできない才能ってある。キヨの音楽だ。キヨの音楽的才能は、たとえ地球が反対周りに動き始めても変わることはない才能だ。しかも自分で、それを才能だと思ってない。まったく気づいていないんだ。そうだろう?だから余計に美しい。」  黙ってエリックの話を聞いていたキヨは、何気に私の髪をなでながら軽く答えた。 「エリック、小説家になれるよ。まったく、エリックの言語能力は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長してるんだから。」 ハハハハッ・・・と、またみんなで笑って、私たちは、私の家に戻った。  私の両親や兄のレンは、もうとっくにエリックやセオの匂いには慣れていた。母と塩崎先生は電話で連絡し合って、今夜の夕食は先生と私の父とがエリックの祖父母たちに同行することに決めていた。  セオはキヨの餃子が食べたいと言ったので、母もいっしょに、みんなで大型スーパーに買い出しに出かけた。  そこで私たちは、あの男に、また出会ってしまった。なんという偶然だろう。それとも神様に何か思惑があるのだろうか?  ヒロトというエリックのお母さんの恋人だった男は、歩けるようになった小さな女の子と手をつないでいた。奥さんのお腹は大きく膨らんでいた。もうすぐ二人目の赤ちゃんが生まれるのだろう。  誰も止める間もなかった。予想できない事故みたいなものだった。    突然その男の前に歩み寄ったエリックは、はっきりと言った。 「母は亡くなりました。ビルの非常階段から飛び降り自殺したんです。」  ヒロトという男は、恐怖に顔をひきつらせた。隣にいた奥さんは、何が何だかわからないなりに『飛び降り自殺』という言葉に反応して青ざめた。  キヨは黙ってエリックを引っ張り、こちらへ連れ戻した。エリックは肩で息をしていた。目は、まだ、あの男を睨み続けていた。  男と家族は立ち去った。私はエリックの感情の波を感じると動けなかった。あの気真面目そうな奥さんの体調も気になった。あんな大きなお腹で大変そうに歩いているのに、どれだけショックを受けただろうかと勝手に想像して頭がクラクラした。  セオと母は初めて、その男を確認した。説明するまでもなく、その男が誰であるかを理解しただろう。セオはエリックに囁くような小声で聞いた。 「彼と話したことあるの?」 エリックは首を横に振った。 「忘れるんだ。母さんは、病気だったんだ。自分で勝手にもう生きるのがイヤになっただけだ。生きることに疲れたんだ。もしかすると、アイツが応援してくれなかったら、もっと早くに力尽きていたかもしれないじゃないか。」  セオの言葉は私の胸の中に、何か新鮮な風を吹き込んだ。同じ驚きを感じたであろうエリックはセオの目をジッと見つめた。 「兄さん・・・・」 と、エリックは言った。エリックがセオを『兄さん』と呼ぶのを私は初めて耳にした。 「兄さん・・・」 エリックは再び、そう言うと、セオの胸にしがみついて泣いた。セオはエリックをしっかり抱きしめていた。  体は大きくても、まだ小学生なんだから、泣けばいいんだ。思いっきり泣けばいいんだ、たとえここがスーパーの人参や玉ねぎやジャガイモの袋が山積みされている棚の前でも。大勢の人々が行き交い、陽気なBGMが流れる賑やかな場所でも。 「兄弟っていいな・・・」 と、キヨが言った。 「キヨはウチの次男だろう? まるで頼りにならない長男に比べて、キヨはウチの宝物だ。さあ、新鮮な白菜とニラを選んで・・・早く家に戻って餃子作ろう。」 と母が言った。 「レンはそのうちノーベル賞もらえるよ!」 キヨがそう言うと、母は 「そのうち、なんて実態のない夢より、今、お腹いっぱいになる美味しい餃子の方が100万倍の価値がある。そうだろう?メイ?」 と母は私に笑いかけた。  母は、いろいろと面倒くさい少年たちの相手をするようになってから、男勝りにズバズバと彼らの迷いを切り落とすような発言をするようになった。母とキヨの言葉のやり取りは、つまらないお笑いを見ているより迫力があった。私は太刀打ちできないので苦笑するのが精いっぱいだった。
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