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夕食後、いつもなら先生は兄のピアノのレッスンをしてから帰るのだが、その日、兄は熱を出して寝ていた。
「今夜はメイとキヨのノクターンでも聞かせてもらおうかな?」
と先生が言うので、私たちはノクターン1番を弾いた。
「いいね!大人が聞いても感動する」
と先生は褒めてくれた。珍しく一緒に聞いていた私の父も
「素晴らしい。メイ、キヨと出会えて良かったな。もっといろいろな曲を2人で練習して、また父さんに聞かせておくれ。キヨ、いつもメイと仲良くしてくれて本当にありがとう。お礼に、今度みんなで旅行に行こうか?」
と言った。
寝ていたはずの兄が起きてきて、
「もう一度、弾いて聞かせて」
と熱で紅潮した顔で言った。
私はキヨと並んでピアノに向かい、いつも通り目を見合わせてからノクターン1番を演奏した。初めは兄に聞かせると思い緊張していたが、いつの間にかキヨが歌い上げる切なく美しいメロディーの魔法に惹き込まれ、私は無心に演奏した。
演奏が終わり、私はホッとしてキヨの体に寄りかかった。キヨは私の背中を支えて
「メイ、今の弾き方、すごく良かった。ショパンと弾いてるみたいな感じがした。」
と言った。
ピアノの椅子から降りて兄を見ると、塩崎先生に抱きしめられて泣いていた。私は訳がわからなかった。塩崎先生はキヨに目配せした。キヨは私の手をつないで、その部屋を出た。父さんも一緒に部屋を出た。
「さあ2人とも喉渇いただろう。母さんに言って冷たいサイダーでももらいなさい。」
父さんは、そんなようなことを言って自分の書斎に引き上げた。
キヨは廊下の片隅に立ち止まって、私の耳にささやいた。
「お兄ちゃんは、きっと僕たちが羨ましかったんだ。もし僕がメイのお兄ちゃんでも泣くと思う。」
「だって・・・お兄ちゃんは1人でも、もっと上手にピアノ弾けるよ?」
「そういうことじゃない。メイを僕に取られたと思ったんだ。」
私は兄の心を想像してみた。キヨが言った意味がわかる気がした。
「私たちは悪い子かな?」
私は泣きそうな気持ちでキヨに聞いた。
「悪い子じゃない。メイは少しも悪くないよ。」
「キヨだって何も悪くないよね?」
「わからない。僕は・・・生きているだけで、パパにもメイの家族にも迷惑かけているような気持ちになることはあるよ。」
「どうして?そんなこと言わないで。キヨが死んじゃったら、私も死ぬ。」
「ごめん・・・死んだりしないよ。」
私はキヨが変なことを言ったので不安になり、キヨにしがみついて泣いた。
塩崎先生が廊下で泣く私の声に気づいて、私とキヨを兄のいるピアノの部屋へ呼び戻した。
「レンは2人の演奏に感動して泣いたんだ。何もメイまで泣くことはないよ。」
先生はそう言った。
「パパ、僕がメイを泣かせちゃったんだ。」
「どういうことかな?説明してごらん。」
キヨは困った顔して立ち尽くした。私はキヨを困らせた自分に責任を感じたので、がんばって説明した。
「先生。キヨがね・・・生きてるだけで先生や私の家族に迷惑かけているような気持ちになることがあるって言ったの。それで、それで・・・」
私はまた泣いてしまった。
すると、兄のレンが力強く、こう言った。
「そんなことない。キヨは素晴らしい。キヨがどんなにメイを大事にしてくれているか、僕はわかる。メイにはキヨが必要なんだ。僕はメイが大好きなのに、すぐイジメてしまう。自分でも、そんなことしたくないのに、ついついメイに厳しいことを言ってしまう。だけど、キヨがメイと二人で・・・あんなに美しい曲を演奏しているのを聞いて・・・僕は・・・僕は・・・たまらない気持ちになった。よくわからないけど・・・嬉しかったんだ。メイが楽しそうにピアノを弾いているのを見て感動したんだ。キヨ、ありがとう。キヨは僕にも家族にも少しも迷惑なんかかけてない。キヨがいてくれないと僕だって寂しい。」
兄が、そんなことを言ってくれるとは思わなかった。私は兄の言葉に感動して、また泣いた。兄もキヨも私も三人で泣いた。先生もきっと少し泣いた。
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