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身体が重い。最初は怠い程度だったのに、あの踏切を越えてから、どんどん調子が悪くなってる。白くてもいいから早く自分の部屋に帰りたい。そうは思うんだが、身体がちゃんと動かないんだ。一歩一歩が異様に緩慢で、なかなか前へ進めない。動かそうとすればするほど上手くいかなくなる。
───少し休めばいいんだよ
「…な…んだって…?」
それは、記憶の断片かもしれない。脳の奥の方に引っ掛かるように残っているその中で、薄い、小さな唇が動いてた。
───焦るから……くなるんだよ
これは、さっき一瞬思い出した唇か? それで合ってるような、間違ってるような…。なんだって言うんだ? …くそっ、上手く思い出せねえ。
額を押さえても、頭を振っても、なんにも出てきやしない。こいつの正体さえ思い出せたら、俺がここにいる理由も判る気がするのに…。
壁に肩をついてもたれ掛かる。しゃがみ込みたいが、座ったらもう立てないんじゃないかと怖くなった。
…怖い?
さっきまで、居心地がいいとかなんとか感じてたくせにな。他人のいない世界は快適かと思ったが、こうも誰かの残像に悩まされ続けなきゃならんのなら、それも御免被りたい。
胸焼けみたいな気持ちの悪さに、大きく息を吐きながら上を向いた。向かいの建物が目に入る。一階に本屋の入ってる雑居ビルだ。入口が開いてる。中に入れそうな建物は今までなかったから、少し好奇心が湧いた。
身体をなんとか立て直して、本屋の中に入ってみた。中もやっぱり白一色か。予想通りの結果に軽く落胆しながら店を出ようとして、そのシミみたいなものに気づいた。
真っ白な本棚に、一冊だけ色柄のついたものがある。表紙の感じからして雑誌か。誰かの写真が大きく表紙に写っている。知ってる顔だ。
「…すげえ不愉快」
写真は自分だった。額を押さえる手で半分顔を隠し、出ている方の目で恨めしそうにこっちを見ている。卑屈で、陰鬱で、厭な表情だ。こんなのを表紙にするなんて趣味が悪い。買う奴なんているのか? こんなもん、白い世界にたった一つ取り残された汚れみたいじゃないか。
でもこの唇の形…。
俺は雑誌を手に取ってみた。恨み言でも言い出しそうに、微かに開いた薄い唇。さっきからチラついているのは、やっぱり自分のだったか? なら、見覚えがあって当然だ。…いや、似てはいるが違う。さっきのはも少し小さくて、もっと瑞々しかった。
『忘れたのか』
写真の唇が動いた。ぎょっとして手を離す。床に落ちた雑誌から、“俺”が睨みつけてくる。目が、合った。
『無かったことになんかならないぞ』
どろりと、写真の唇が歪む。色が溶け、液体のように流れて広がりだす。嗤っているようなそいつは、一瞬で溶け崩れ、消えた。
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