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話は三時間前に遡る。
某ブラック企業に勤めるケイ、二十八歳はごくありふれた営業マンの青年だった。
会社から電車で三十分の小さなアパートの部屋に一人暮らしで、彼女はいない。
いたこともあるが、とにかく今はいない。
容姿も至って普通の中肉中背、黒髪短髪。強いて言えば他人と違うのは実年齢より少し若く見えることくらいか。
物語の主人公というにはあまりにも地味だ。
毎日家と会社の往復で、出社するのは朝。退社するのは深夜。本当の定時は五時だが暗黙の定時は十時でそこからが残業時間という典型的なブラック企業だ。
…残業時間といっても手当てがつくわけではないが。
楽しみといえば平日より少し早く帰れる休日の夜に部屋で趣味のギターを弾くことくらい。
「へぇ、ケイさんってギター弾くんですね」
残業中にそう言って笑っていたのが営業部の後輩の嵐山。
「そそ。で、技術開発部にいる同期の東寺がベーシストで学生時代にバンド組んでたんだ」
「マジですか?! いいなぁ…楽器弾ける人ってなんか憧れるっていうか、趣味って言えるものがあるっていいですよね。俺、趣味寝ることですもん」
「んじゃ、その趣味のためにもさっさと帰れよ。今日もうあと俺がやっとくから」
苦笑交じりに言ってやると案の定お決まりのセリフが返ってくる。
「いいんですか? 九時ってまだ定時前ですよ」
その日、営業部に残っている人間は彼らを含めて三人だけだった。
ニヤニヤしながら言ってくる嵐山をケイが笑い飛ばす。
「早退だな。ま、今日は上司も先に帰ったし俺も早く帰るつもりだから」
それじゃあ…と、嵐山が少し申し訳なさげに笑って礼を言いかけた時だった。
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