千春はマフラーを編む

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 マフラーを編むことは木を切ることに似ている。  毛糸の玉が、私にとっての森。  1本1本が生命を持ち、そして同時に、すべてがつながっている。実際木の中には、コロニーの木々たちが、たったひとつの根っこでつながっているものがある。私はそれを分かち、組み替え、新しくものをつくりだす。人を守り温める木造の家のように、手編みのセーターや手袋を生み出すのだ。  2本の棒針が、私にとっての斧と鋸。  編み目をたぐり寄せ、糸を合わせながら、規則的に呼吸をする。呼吸は大事だ。酸素を確実に吸い込み、脳へと送る。集中力との勝負。深く深く意識の底へと潜れば、いつの間にか、どこかからトン……トン……トン……と、規則的な音が聞こえてくる。切り倒す音だ。私の心の中の余計なもの、よくないものを、淡々とこの音が打ち払っていく。 「手編みとか、重いから」  そんなふうに言われた記憶がふと、脳裏に柔く蘇る。若き日の未熟さから来る、他愛ない失敗。恋仲ならまだしも、ほとんど知らぬ少女から突然の告白と共に渡されたら、年頃の男子が困惑するのも仕方がない。  でも、かまわない。  あの日の恥ずかしい失敗も、今では、懐かしく愛おしい思い出として、この胸をやさしく温めるかわいい蝋燭の灯火だ。その淡い熱を動力源に、老いに震える私の指は、あともうすこし、あともうすこしと、棒針を糸目に潜らせる。 「おかあさん、私、子供ができたよ」  また、新しい灯火。これは比較的、最近できたばかりの灯だ。その柔らかなオレンジの火の中に浮かび上がるのは、赤子の顔。くしゃくしゃの顔いっぱいに、幸せな笑顔を浮かべている。赤ちゃん服からちょこんと出た、小さな手足。あどけないまん丸の瞳。私の愛猫のメルと共に、毛糸玉で遊んでいた頃が懐かしく思える。やがて彼女は成長し、メルの背丈をゆうに追い越した。  マフラーを編むことは木を切ることに似ている。  やがて木こりは山を下りる。川のせせらぎ、霧の冷たさ、そういったものを後ろにおいて。一歩、また一歩と、里へ近付く。心地よく疲弊した体。この身を巡る温い血潮と、それを冷ます夕の風。髪がなびいて、顔を上げる。部屋の窓は閉まっている。 「僕のぶんまで、娘たちを見守ってあげてほしいんだ」  熱は、生命の証。  愛する者とつなぐ手はいつか冷え、砂となり、虚空に消え去る。けれどたとえ、すべての熱が肉体から失われたとしても、人の心には、人の記憶には、故人の熱が宿り続ける。見えない灯。触れられない焔。 「千春おばあちゃん。ご飯ができたよ」  最後の目を止め終えたそのとき、ちょうど孫娘が私を呼んだ。そろそろ山を下りなければいけないようだ。  編み上げたばかりのマフラーを隠し、毛糸と棒針を棚へしまうと、メルが待ってましたとばかりに足元へすり寄ってくる。メルは賢い猫で、私が誰のためのものを編んでいるのか、いつも理解している。このマフラーは孫娘の誕生日にプレゼントして驚かせるつもりなので、その前にネタばらしされないよう、余った毛糸玉をそっと床に放った。 「内緒にしてよ。ね?」  私の与えたふわふわの賄賂を、メルはしばらく肉球でころころと弄び、やがて夢中になって遊び始めた。いつもどおりの光景。けれど決して、永遠ではない風景。私はメルの頭を少し撫で、自らの部屋を出る。  願わくば明日も、毛糸の森で会えますよう。  
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